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2023年12月19日「イエスのいとこの誕生」

イエスのいとこの誕生

日付
説教
尾崎純 牧師
聖書
ルカによる福音書 1章56節~66節

聖句のアイコン聖書の言葉

56さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。58近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。59八日目に、その子に割礼を施すために来た人々は、父の名を取ってザカリアと名付けようとした。60ところが、母は、「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言った。61しかし人々は、「あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいない」と言い、62父親に、「この子に何と名を付けたいか」と手振りで尋ねた。63父親は字を書く板を出させて、「この子の名はヨハネ」と書いたので、人々は皆驚いた。64すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。65近所の人々は皆恐れを感じた。そして、このことすべてが、ユダヤの山里中で話題になった。66聞いた人々は皆これを心に留め、「いったい、この子はどんな人になるのだろうか」と言った。この子には主の力が及んでいたのである。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ルカによる福音書 1章56節~66節

原稿のアイコンメッセージ

洗礼者ヨハネが生まれた。
洗礼者ヨハネは多くの人に洗礼を授けた。
洗礼というのは罪を洗い清める儀式。
つまり、逆に言って、罪を自覚していない人は洗礼を受けようとは思わない。
では、罪とは何か。
「的外れ」という言葉が元になってできた言葉。
アダムとエバの話。
自分を真っ先に愛してしまうことが的外れだと聖書は言う。
人間皆そうだ、と聖書は言う。
そう言われればそうか。
しかし、私たちが普段それを自覚しているかというと、そうでもない。
それは自分にとって当たり前だから、なかなか自覚できない。
洗礼者ヨハネはそれを人々に自覚させた。
だから、たくさんの人に洗礼を授けることができた。
洗礼者ヨハネは、人の心を整えた。
そう、洗礼を授けることが目的なのではなく、人の心を整えることが目的。
この人は、人の心を整えて、イエス様を迎える準備をした。
聖書には救い主が生まれることが預言されていたが、その前に、救い主を迎えるために準備をする人が現れることも記されていた。
その通りにヨハネは働いた。

ただ、洗礼者ヨハネが生まれるということは、その両親にとっては大変なこと。
お父さんはザカリア。
お母さんはエリサベト。
そして、今日の58節で、「近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った」と書かれている。
しかし、子どもが生まれただけでそこまで言うか。
1章18節にこういうことが書かれていた。
洗礼者ヨハネが生まれることを、天使がザカリアに予告する場面。
ザカリアは祭司。
神殿で神様に仕える仕事をしていた。
その時、天使が現れて、ザカリアとエリサベトの間に子どもが生まれると伝えた。
それに対して、ザカリアは言った。
「そこで、ザカリアは天使に言った。『何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年を取っています。』」。
つまり、この夫婦は、普通に考えたら子どもが生まれるような年ではなかった。
けれども、子どもが与えられた。
だから、人々は大いに喜んだ。

1章26節からのところでは、この同じ天使はマリアにも予告している。
神の力でマリアがイエス様を生むということ。
この時マリアは、まだ結婚していない。
しかし、子どもが生まれるということ。
神の力が働く。
年をとったザカリアとエリサベトにも、子どもが生まれる。
普通に考えたらありえないようなことだけれど、神の力でそうなる。
神の力でそうなるのだから、マリアにもザカリアにも予告する必要はなかったはず。
けれどもここに、人に対する神の御心が良く現れている。
1章28節で、天使はマリアに対して最初にこう言った。
「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」。
神は、私たちと一緒にいてくださる神。
ここに、神の御心が表れている。
神は私たちと一緒にいたいと思ってくださっている。
一緒にいたいというのは単に同じ場所にいたいということではない。
心を一つにしたい。
だから、予告する。
マリアは、信じられない予告を受け入れた。
38節にマリアの言葉がある。
「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」。
常識では考えられないことだが、神の言葉を受け入れた。

しかし、ザカリアはどうだったか。
ザカリアは信じなかった。
年をとっている自分たちに子どもが出来るはずはない。
でもザカリアがそんなことを言うのはおかしい。
天使は最初に、ザカリアに対して、「ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた」と言った(13節)。
ザカリアは願っていた。
それなのに、信じない。
願っていたことなのに、常識で考えられないことは受け容れない。
これは、聖書が、人間の常識というものが困ったものだということを語っているのではないか。
良いことであったとしても、自分の頭に収まらないものははじいてしまう。
願っていることでも、それが実現する方法が常識外れだったら受け入れない。
神の言葉よりも常識の方が上。
私たちは常識に縛られてしまっている。
私自身にも思い出がある。
牧師になる前に、神学生だった時、神戸改革派神学校と姉妹校であった韓国の神学校に、神学校の仲間たちと何人かで行った。
ある時、大きな教会のゲストルームに泊めてもらった。
しかし、一緒に韓国に来た二人の神学生が何時になっても帰ってこない。
そこにいた仲間たちで話し合って、朝になるのを待とうということになった。
朝になった。
まだ帰ってきていない。
どうしようか。
警察に連絡するか。
祈ろう。
一人の人が言った。
そして、皆で丸くなって座って、その人が最初に祈った。
一生懸命祈った。
祈り終わって、皆大きな声で、「アーメン」。
その瞬間、ドアが開いて、二人が帰ってきた。
ところが、祈っていたその人は、立ち上がって、二人に対して、「バカ!」。
祈りが聞かれたのだが……。

神の言葉を受け入れなかったザカリアは、どうなったか。
天使はザカリアに言った。
「あなたは口がきけなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」(19節)。
神の言葉は実現する。
それには、人の許可が必要なわけではない。
しかし、神様が心を一つにしたいと思っているのに、ザカリアはそれを受け入れなかった。
そうすると、ザカリアは話すことができなくなった。
しかし、どうして、ここで口がきけなくされたのか。
目が見えなくなる、ではないんですね。
歩けなくなる、でもない。
そして、この時ザカリアは口がきけなくなっただけではなかったらしい。
今日の62節で、生まれてきた赤ちゃんに名前を付ける時、人々が父親であるザカリアに、「手振りで尋ねた」と書かれています。
どうやら、耳も聞こえなかったらしい。
話すことができないし、耳も聞こえない。
そうなると、ザカリアとしてはどういう感覚になるか。
自分の言葉をしゃべれない。
人の言葉も聞こえない。
ザカリアは、子どもが生まれてくるまで、ひたすら神様の言葉に心を向けるしかなかった。
神様の言葉にだけ心を向けていた。
そうして、神様と心を一つにしていった。
これは私たちにとっても大切なこと。
神様と心を一つにするということ。
そのためには、自分の言葉にも人の言葉にも沈黙することが必要。
そうしてこそ聞こえてくる神の言葉がある。
今聖書は私たちにそのことを伝えている。
私たちの周りには人の言葉があふれている。
私たちの頭の中には自分の言葉があふれている。
自分の頭の中の声がどれほどの力があるか。
考えるのを止めようとしても、次々に頭の中に言葉が浮かんでくる。
それを退けることの大切さを、聖書は教えている。
沈黙の中で出会う神の言葉があるのだと、聖書は言っている。

この時、ザカリアは自分の子どもに、ヨハネという名前を付けた。
どうしてかと言うと、1章12節で、天使からそうするようにと言われていたから。
そして、名前を付けるというのは、聖書では、上の者が下の者に付ける。
子どもの名前は普通は親が付ける。
ザカリアの子どもの名前は神が付けた。
つまり、この子ヨハネは神のものだということ。
周りの人たちは、その名前は違うと言ったが、ザカリアは神の言葉に従った。
神の言葉にだけ心を向ける中で、神の言葉が実現するのを見た。
だからこそ、今度は人から何を言われても、神に従うことができた。
ということは、ザカリアが耳が聞こえず、しゃべれないようにされてしまったのは、罰ではない。
訓練。
自分の言葉も人の言葉も退けて、神の言葉に従うようになるための訓練。
本当に信仰を生きるようになるには訓練が必要。
ただそれは、自分から訓練を設定することではない。
神が備えてくださる訓練がある。
その時、私たちは人の言葉に沈黙して、神に向かう。
そうすることで、私たちは変えられる。
本当に信仰を生きるようになる。

その訓練は、ザカリアのような、神殿で神に仕える仕事をしている人にも必要なものだった。
ということは、この訓練が必要でない人はほとんどいないと考えるべき。
この訓練を経て、初めて、人は、御心に従い、神を賛美する者に変えられる。
この時、ザカリアは賛美し始めた。
神の言葉に出会うと、人は賛美する。
自分の言葉も人の言葉も、神を賛美するようにはさせてくれない。
神の言葉が、私たちを変える。

自分の言葉を語ることを止める時を持ちたい。
人の言葉を聞くことを止める時を持ちたい。
神の言葉にだけ心を向ける時を持ちたい。
神は私たちにそれが必要だと考えておられる。
人間の言葉に縛り付けられている私たちがそこから自由になる時、考えられないような神の言葉が実現する。
今日、神は、私たちに、そのことを伝えてくださっている。
私たちも、訓練されたい。
訓練の向こうに、賛美がある。
神はその所に、私たちを招きたいと願っておられる。
このクリスマスの季節、神の言葉であるキリストを私たちの心に迎え入れよう。
神の言葉に耳を澄ませて、喜んで賛美する者に変えられたい。

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