2022年02月20日「新たな教会の誕生」
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新たな教会の誕生
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- 木村恭子 牧師
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使徒言行録 11章19節~30節
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聖書の言葉
ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のために散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行ったが、ユダヤ人以外のだれにも御言葉を語らなかった。しかし、彼らの中にキプロス島やキレネから来た者がいて、アンティオキアへ行き、ギリシア語を話す人々にも語りかけ、主イエスについて福音を告げ知らせた。主がこの人々を助けられたので、信じて主に立ち帰った者の数は多かった。
このうわさがエルサレムにある教会にも聞こえてきたので、教会はバルナバをアンティオキアへ行くように派遣した。バルナバはそこに到着すると、神の恵みが与えられた有様を見て喜び、そして、固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧めた。バルナバは立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていたからである。こうして、多くの人が主へと導かれた。
それから、バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた。このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。
そのころ、預言する人々がエルサレムからアンティオキアに下って来た。その中の一人のアガボという者が立って、大飢饉が世界中に起こると“霊”によって予告したが、果たしてそれはクラウディウス帝の時に起こった。そこで、弟子たちはそれぞれの力に応じて、ユダヤに住む兄弟たちに援助の品を送ることに決めた。そして、それを実行し、バルナバとサウロに託して長老たちに届けた。
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
使徒言行録 11章19節~30節
メッセージ
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<説教要約> 使徒言行録11章19-30 「新たな教会の誕生」
先週までで、コルネリウスの話が終わりました。
そして、本日からは、キリストの福音が本格的に異邦人の地に伝えられていくという段階。エルサレム以外の地に、新たに、しかも異邦人教会が誕生する、という話に入ります。
少しずつ見ていきましょう。
11:19 ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のために散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行ったが、ユダヤ人以外のだれにも御言葉を語らなかった。
ステファノがユダヤ人からの迫害を受けて殺害された後、エルサレムでは、特に異邦人キリスト者に対する迫害が激しくなりました。それで、異邦人キリスト者たちはエルサレムに留まることができなくなってエルサレムを離れました。ですけれど、彼らは行く先々でキリストの福音を語りました。
使徒言行録8章には、ステファノと同じギリシャ語を話すグループに属する、フィリポによるサマリア伝道のことが記されています。
①使途8:12 しかし、フィリポが神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせるのを人々は信じ、男も女も洗礼を受けた。
しかし散って行った者たちの中には、さらに遠く、フェニキア、キプロス、アンティオキアにまで散らされた者たちもいました。それが今日の話です。
彼らはさらに北へ行ったのです。
ですが、「迫害のために散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行ったが、ユダヤ人以外のだれにも御言葉を語らなかった。」とあります。
ところが、11章20節を見ますと、
11:20 しかし、彼らの中にキプロス島やキレネから来た者がいて、アンティオキアへ行き、ギリシア語を話す人々にも語りかけ、主イエスについて福音を告げ知らせた。とあります。
エルサレムから散らされたギリシャ語を話す異邦人たちの中に、地中海のキプロス島出身者や、遠くアフリカのキレネ(今のリビア)からの人もいて、彼らはユダヤ人だけでなく、ギリシャ語を話す人々に、ギリシャ語で主イエスの福音を語り始めた、というのです。
そして、21節には、
11:21 主がこの人々を助けられたので、信じて主に立ち帰った者の数は多かった。とあります。
新共同訳聖書は「主がこの人々を助けられた」と訳していますが、原文は「主の御手が共にあったので」という言い方です。
彼らがギリシャ人に話しかけ、主イエスの福音を告げ知らせた時、主の御手が共にあったとは、そこに聖霊が働いたということでしょう。
彼らの福音宣教が、聖霊に助けられて、多くのギリシャ人の心に届いた。その結果、唯一まことの神とイエス・キリストの福音を信じる者がたくさん起こされたのです。
そしてこのニュースは、ここから500キロも離れたエルサレム教会にまで届いたのです。このニュースを聞いてエルサレム教会はすぐに一つの行動を起こしました。エルサレム教会の使徒たちは、ペトロのカイサリア伝道によって、神は「異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださる」ということを理解していましたから。
22節。
11:22 このうわさがエルサレムにある教会にも聞こえてきたので、教会はバルナバをアンティオキアへ行くように派遣した。
エルサレム教会は、バルナバという弟子をアンティオキアへ送ったのです。
バルナバについては、すでに使徒言行録4章に記されています。
②使徒4:36-37
4:36 たとえば、レビ族の人で、使徒たちからバルナバ――「慰めの子」という意味――と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、
4:37 持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた。
ここから、バルナバはキプロス島出身でギリシャ語を話す人。しかもエルサレム教会初期の頃からの熱心な信者だということが分かります。
エルサレム教会は、この信仰心に厚いギリシャ語を話す弟子を、早速アンティオキアへ派遣したのです。
11:23 バルナバはそこに到着すると、神の恵みが与えられた有様を見て喜び、そして、固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧めた。
アンティオキアに到着したバルナバは、多くの人々が、それも異邦人たちが、信じて主に立ち帰った様子を見て、そこに神の業を見て、心から喜んだのです。
そして「固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧めた」とあります
新改訳聖書では「心を堅く保って、いつも主にとどまっているようにと、皆を励ました。」です。
信仰とは、主に、まことの神に留まること。神と共に生きること。具体的には、神の言葉に留まることです。
もちろんその為に、神の支えがあります。ですけれど、信仰者自身が、自分を堅く保って、み言葉に留まる!!という決意、自分の心を堅く保つという信仰の姿勢も必要です。
この後バルナバは、聖霊に導かれてある行動をとります。それが25節-26節前半です。
11:25 それから、バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、
11:26a 見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。
久しぶりにサウロ、後のパウロの名が登場します。
復活の主にお会いして、捉えられ、キリストを信じる者となったサウロは、その後エルサレムに上ってエルサレム教会の使徒たちと顔つなぎをしました。その面会を取り持ったのもこのバルナバでした。
けれどサウロはエルサレムで命を狙われたので、カイサリアからタルソスへと脱出していました。
この時サウロはタルソスにいたのです。そして、バルナバは、そのことを知っていましたから、彼はすぐにタルソスへ行って、サウロを探し出し、アンティオキアへ連れてきたのです。
それは、サウロと協力して、アンティオキア伝道を進め、異邦人教会をたてるためでした。
11:26b二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた。このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。
とあります。
26節に「そこの教会」とあります。もちろんこれは「アンティオキア教会」ということですが、使徒言行録で、エルサレム教会以外に「教会」という言葉が使われるのは、ここが最初です。
つまり、この時初めて、エルサレム教会以外の教会が誕生したということ。「新たな教会の誕生」です。
アンティオキア教会の特色は、異邦人中心の教会であること。さらに使徒たちの手で立てられた教会ではなく、ギリシャ語を話す弟子の手で立てられた教会である、ということです。
また、ここで初めてキリストを主と信じる者たちが「キリスト者」「クリスチャン」と呼ばれるようになったとも記されています。「キリスト者」とは、キリストに従う者たち、ということです。
新たに誕生したアンティオキア教会は、バルナバとサウロの協力伝道と指導によって、キリストの教会として大きく成長したことが27節以下から読み取れます。
そこには、大飢饉のために窮乏したエルサレム教会に、アンティオキア教会から支援物資を送った、という記述があります。
アンティオキア教会は今や、親教会ともいえる、エルサレム教会を援助できるまでに成長した、ということです。
今日の箇所からも、いろんなことが教えられます。
一つは、伝道は神の働きであり、神の助けがあるということです。
11:21主がこの人々を助けられたので、信じて主に立ち帰った者の数は多かった。
これは、今も同じことです。福音宣教には必ず神のご計画と助けがあります。そのことを忘れてはなりません。
また、働きの適材適所、ということも教えられています。今回アンティオキアに派遣されたのは、ユダヤ人使徒ではなく、ギリシャ語を話す信徒であるバルナバでした。
同胞への伝道という意味でバルナバが派遣され、さらにバルナバはユダヤ人であるけれど、ユダヤでなくタルソ生まれのサウロを同労者として選んだのです。
さらに、生まれたばかりの教会が成長して親教会を助けるようになったという現実も見ました。教会はその時々、その時代時代でいつも同じではないということです。
ですが、協力し、助け合いながら、働きを継続していくということが大切です。
さらに、教会の中にもいろんな状況の方がおられます。ですから一人一人が、自分の状況に応じて、神と教会、隣人に仕える、という視点が大切です。