2022年01月09日「神の前にいるのです」
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神の前にいるのです
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- 木村恭子 牧師
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使徒言行録 10章24節~33節
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聖書の言葉
次の日、一行はカイサリアに到着した。コルネリウスは親類や親しい友人を呼び集めて待っていた。
ペトロが来ると、コルネリウスは迎えに出て、足もとにひれ伏して拝んだ。ペトロは彼を起こして言った。「お立ちください。わたしもただの人間です。」
10:27 そして、話しながら家に入ってみると、大勢の人が集まっていたので、彼らに言った。「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。それで、お招きを受けたとき、すぐ来たのです。お尋ねしますが、なぜ招いてくださったのですか。」
すると、コルネリウスが言った。「四日前の今ごろのことです。わたしが家で午後三時の祈りをしていますと、輝く服を着た人がわたしの前に立って、言うのです。『コルネリウス、あなたの祈りは聞き入れられ、あなたの施しは神の前で覚えられた。ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。その人は、海岸にある革なめし職人シモンの家に泊まっている。』それで、早速あなたのところに人を送ったのです。よくおいでくださいました。今わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです。」
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
使徒言行録 10章24節~33節
メッセージ
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先週から使徒言行録の学びに戻りました。今朝は10章24節からで、イタリア隊の百人隊長コルネリウスの話の続きです。
神から幻によって、「神が清めた物を、清くないなどとあなたは言ってはならない」と教えられたペトロのところに、コルネリウスからのお使いの人が到着しました。
神は、聖霊によってペトロに彼らと一緒に行くようにと命じました。
神からの幻、聖霊の言葉、そしてコルネリウスから遣わされた人々の言葉によって、ペトロは神の意志を理解しました。
つまり、異邦人、外国人である百人隊長の招きに応じるように。彼の所へ行って、キリストの福音を語るように、と神が命じておられると理解したのです。
実はこれは、当時のユダヤ人にとっては大きなことでしたが、それが神の心だと理解したペトロは、すぐに神に従う行動をとりました。
10:23 それで、ペトロはその人たちを迎え入れ、泊まらせた。翌日、ペトロはそこをたち、彼らと出かけた。ヤッファの兄弟も何人か一緒に行った。
ここまでが先週までの話です。
10:24 次の日、一行はカイサリアに到着した。コルネリウスは親類や親しい友人を呼び集めて待っていた。
コルネリウスは、天使から「ペトロを家に招いて話を聞くように」とお告げを受けた時、それを神の言葉と受け止めました。そして家族や親類、友人と一緒に神の言葉を聞こうと準備し、待ち構えていたのです。
待ちに待っていたペトロが到着すると、「コルネリウスは迎えに出て、足もとにひれ伏して拝んだ。」とあります。 それを見たペトロは、コルネリウスを慌てて起こして「お立ちください。わたしもただの人間です。」と彼に告げたのです。
そして、家の中に入り、大勢の人が集まっているのを見て言いました。
10:28「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。
ここでペトロは、「ユダヤ人が外国人との交際や訪問を律法で禁じられている」と言いますが、実際には食物規定があって共に食事の席に着けない、ということです。
当時のユダヤ人にとって、自分たちは神の民であり、異邦人は神の恵みの外にいる者たち、という区別があり、ペトロ自身もまたエルサレム教会自体も、そこから抜け切れずにいたのです。
しかし、今やイエス・キリストを信じる信仰によって、その隔て、区別はないのだということを神はここで示しておられます。
後にパウロはガラテヤの信徒への手紙でこのように記しています。
①ガラテヤ3:28-29
3:28 そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。
3:29 あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。
神の救いは歴史の中で、ユダヤ民族を通してもたらされました。
しかし、イエス・キリストの十字架と死と復活をとおして、新しい時代に入りました。
救いは、キリストを主と信じるすべての人に与えられる、という時代に。
神の救いの御業は、留まってはいない、救いは進展するのです。
また、コルネリウスがペトロを拝もうとした、ということとの関連で、私たちも注意すべきことがあります。
ペトロは、「お立ちください。わたしもただの人間です。」と慌ててコルネリウスを立たせましたが、それはコルネリウスにもわかっていたはずです。でも、神の言葉を語ってくれる人として、神が遣わされた人であるペトロを思わず伏し拝んでしまった彼の行為は、人間的には理解できる気がします。
私たちにも、尊敬を超えて、崇拝したくなるような人っていますよね。例えば、偉人とか聖人と言われる人、才能豊かな説教者や神学者、などなど。
伏し拝むまでしなくても、その人のことをまるで神のように崇拝し、その人の言うことなら間違いないと信じてしまう。そんな人がいるとしたら、注意が必要です。どんなに優れた人物であっても、「神の前で」はやはり一人の人間なのだ、ということを覚えることが大切です。
「神の前で」という言葉は、今日の箇所で2回出ています。
31節と33節です。
31節は天使の言葉です。
10:31『コルネリウス、あなたの祈りは聞き入れられ、あなたの施しは神の前で覚えられた。
キリスト者の祈り、よき業、献げ物は人を意識して行うものではありません。神を意識して、神の前で行うものです。そして、神はそれを覚えてくださるのです。
しかし、キリスト者であっても弱さがありますから、神よりも人の目を意識することがあります。ですが、神は、人との比較ではなく、信仰者一人一人を見ておられます。
人を意識した信仰生活、礼拝生活、よき業、献金は、神へのストレートな献げ物ではありませんから、神はお喜びになりません。
私たちも「神の前で」を意識した信仰の歩みをいたしましょう。
10:33 それで、早速あなたのところに人を送ったのです。よくおいでくださいました。今わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです。」
「よくおいでくださいました。」「よくいらっしゃいました。」
私たちも言いますよね。でも、本心からの言葉ではない場合もあるでしょう。
ですが、ここでのコルネリウスの言葉は、心の底からの言葉でした。
彼がペトロの訪問を歓迎したのは、大切な目的があるからです。それが次の言葉です。
「今わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです。」
彼は、「わたしたちは皆」と言います。わたしたちとは、コルネリウス自身と彼の親類や親しい友人、そしてペトロとヤッファから同行した人々、すべてを含んでいます。
その場にいる全員が、今、神が命じた言葉をもらさず聞こうと神の前に集っているのだ、というのです。
これこそが神礼拝の姿です。
私たちも、毎週の礼拝に真剣に取り組み、主の日の礼拝において、皆で神の前に出る。
み言葉を語る者も、聞くものも、みんな、神の前ではただの人ですが、その場にいる皆が、神の言葉を聞こうとして、神の前にいる。そういう真剣な礼拝の民を、神は喜んでくださいます。
「今わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです。」