音声ファイル 礼拝説教を録音した音声ファイルを公開しています。 再生できない方はこちらをクリック 聖書の言葉 「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」 ルカ24:39日本聖書協会『聖書 新共同訳』ルカによる福音書 24章36節~43節 メッセージ <説教要約>聖書 ルカによる福音書24章36-43節 (新約 P161)説教 「わたしの手や足を見なさい」 私は葬儀の時いつも、「キリストを信じて召された方の魂は、死後すぐに神のもとへ行きます」とお話しします。これはクリスチャン以外の方でも多くの方が納得なさいます。死後、魂が神のもとへ行くということは、受け入れやすいのでしょう。しかし聖書の教えはそこかでではありません。聖書は肉体をもった復活まで教えるのです。ですが、その話をしますと、多くの方は不思議な顔をなさいます。もっというならクリスチャンであっても、そこまではなかなか信じられないという方、いらっしゃるのではないでしょうか。今日の箇所では、復活したキリストが肉体を持っておられるということを、弟子たちに示された話です。また、このことは同時に、私たちにも肉体をもった復活の希望があるということでもあります。そういう意味で、今日の箇所はとても大切なところです。イエスの十字架から3日目の夕方、エルサレムで弟子たちが集まっていました。弟子たちは、「主は復活して、シモンに現れた」という話で盛り上がっていました。そこに、エマオ村から戻ってきたクレオパともう一人の弟子が加わって、「道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。」というのです。そういうことを話していると、その真ん中にイエスご自身が突然姿を現して「あなたがたに平和があるように」と言われたのです。ヨハネ福音書には、「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。」(ヨハネ20:19)とあります。ユダヤ人を恐れて、鍵をかけて集まっていたその真ん中に、突然イエスが立たれた、というのですら、もうびっくりだったはず。「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。」(ルカ24:37a)ここで「亡霊」と訳されているのは、『プニューマ』というギリシャ語です。風、息、霊などとも訳せる言葉です。新共同訳聖書では「亡霊」と訳していますが、これだと「死んだ人の霊」ということですよね。口語訳聖書や新改訳聖書では「霊」、フランシスコ会訳聖書では「幽霊」と訳しています。いろいろに訳されていて大変興味深いところですが。弟子たちが、目の前に現れたイエスを見て、どういう状態で現れたのか、その認識について解釈が入った翻訳になっているのだと思います。どちらにしても、入り口に鍵がかかっていたのに、部屋の真ん中にスーッと入って来られたことから、肉体を持たない霊的な存在として理解したということでしょう。しかしイエスは、「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。」(ルカ24:37b)と言われ、ご自分の手と足をお見せになり、さらに言葉を重ねられました。「まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」(ルカ24:39)こう言われて、実際に手も足もある、肉も骨もある、とお体をお示しになりました。イエスはご自身の復活が、単に霊的な復活、霊的な顕現ではなく、肉体をもった復活であることをお示しになったのです。実際に手で触ることができる肉体、握手したり、抱きしめたりできる方として、イエスはそこにおられたのです。弟子たちはそのお姿を見て、喜びながらもまだ信じられず不思議がっていました。それでイエスは、ご自身が霊的な復活、幽霊や亡霊ではないことを証明するため、食事ができることをお示しになりました。弟子たちが持ってきた焼き魚を、彼らの目の前でお食べになったのです。復活の体は食事ができる!! これは驚きです。天国の食卓、神の国の祝宴に与るという表現がありますが、復活なさったイエスの、このお姿を知る時に、私たちもやがて復活し、神の国の食卓に与れるのだなあと嬉しくなります。話は変わりますが、キリストを信じる者たちの復活について、パウロはコリントの信徒への手紙で次のように記しています。コリントの信徒への手紙Ⅰ15:51-55「わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。『死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。』」地上生涯を終えると私たちの魂はすぐに神のもとへと招き入れられます。ですが、それで終わりではありません。「最後のラッパが鳴る時」これは最後の審判の時、キリストの再臨と神の国の完成の時のことです。その時、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられる。私たちキリストを信じる者たちも、キリストに結ばれて復活するのです。今日の話で言うなら、復活されたイエスのように、肉も骨もあるそういう肉体をもって復活する。しかし、今の体と全く同じではなく、違いもあります。コリントの信徒の手紙では、「朽ちないものとされる」とあります。これは、死ぬことがないということです。しかし一方で、今の体と同じ点もあります。今日の箇所では、食事ができる、物が食べられるという所。またイエスは、「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。」(ルカ24:39)と言われました。ですから、復活後に誰が誰やらわからないというのではなく、この私が私の肉体をもって復活する。キリストを信じて地上生涯を全うした私は、やがて再び、わたしとして復活するということです。ということは、今生きている私がある意味ずっとついて回るということです。今の私がいったんリセットされて全く変えられるのではないということです。そうであれば、今キリストに従ってしっかり生きること。神と隣人を愛して生きる今の歩みを充実させることが大切です。このようにして、イエスは弟子たちがイエスの復活を信じられるようにと、何度も弟子たちの前にお姿を示してくださいました。疑い深い弟子たちに、ふさわしい仕方で現れてくださり、復活の事実を積み重ねてくださったのです。そして今も、疑い深い私たちに、み言葉と聖霊の働きを通して、復活のイエスがご自身をお示しくださっています。このことを信仰によって受け止め、今もこれから先も、主と共に生きる希望を持ち続けましょう。 関連する説教を探す 2020年の日曜朝の礼拝 『ルカによる福音書』
<説教要約>
聖書 ルカによる福音書24章36-43節 (新約 P161)
説教 「わたしの手や足を見なさい」
私は葬儀の時いつも、「キリストを信じて召された方の魂は、死後すぐに神のもとへ行きます」とお話しします。これはクリスチャン以外の方でも多くの方が納得なさいます。死後、魂が神のもとへ行くということは、受け入れやすいのでしょう。しかし聖書の教えはそこかでではありません。聖書は肉体をもった復活まで教えるのです。ですが、その話をしますと、多くの方は不思議な顔をなさいます。
もっというならクリスチャンであっても、そこまではなかなか信じられないという方、いらっしゃるのではないでしょうか。
今日の箇所では、復活したキリストが肉体を持っておられるということを、弟子たちに示された話です。また、このことは同時に、私たちにも肉体をもった復活の希望があるということでもあります。そういう意味で、今日の箇所はとても大切なところです。
イエスの十字架から3日目の夕方、エルサレムで弟子たちが集まっていました。弟子たちは、「主は復活して、シモンに現れた」という話で盛り上がっていました。そこに、エマオ村から戻ってきたクレオパともう一人の弟子が加わって、「道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。」というのです。
そういうことを話していると、その真ん中にイエスご自身が突然姿を現して「あなたがたに平和があるように」と言われたのです。
ヨハネ福音書には、「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。」(ヨハネ20:19)とあります。ユダヤ人を恐れて、鍵をかけて集まっていたその真ん中に、突然イエスが立たれた、というのですら、もうびっくりだったはず。
「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。」(ルカ24:37a)
ここで「亡霊」と訳されているのは、『プニューマ』というギリシャ語です。風、息、霊などとも訳せる言葉です。新共同訳聖書では「亡霊」と訳していますが、これだと「死んだ人の霊」ということですよね。口語訳聖書や新改訳聖書では「霊」、フランシスコ会訳聖書では「幽霊」と訳しています。いろいろに訳されていて大変興味深いところですが。
弟子たちが、目の前に現れたイエスを見て、どういう状態で現れたのか、その認識について解釈が入った翻訳になっているのだと思います。
どちらにしても、入り口に鍵がかかっていたのに、部屋の真ん中にスーッと入って来られたことから、肉体を持たない霊的な存在として理解したということでしょう。
しかしイエスは、「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。」(ルカ24:37b)と言われ、ご自分の手と足をお見せになり、さらに言葉を重ねられました。
「まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」(ルカ24:39)こう言われて、実際に手も足もある、肉も骨もある、とお体をお示しになりました。
イエスはご自身の復活が、単に霊的な復活、霊的な顕現ではなく、肉体をもった復活であることをお示しになったのです。実際に手で触ることができる肉体、握手したり、抱きしめたりできる方として、イエスはそこにおられたのです。
弟子たちはそのお姿を見て、喜びながらもまだ信じられず不思議がっていました。
それでイエスは、ご自身が霊的な復活、幽霊や亡霊ではないことを証明するため、食事ができることをお示しになりました。弟子たちが持ってきた焼き魚を、彼らの目の前でお食べになったのです。
復活の体は食事ができる!! これは驚きです。
天国の食卓、神の国の祝宴に与るという表現がありますが、復活なさったイエスの、このお姿を知る時に、私たちもやがて復活し、神の国の食卓に与れるのだなあと嬉しくなります。
話は変わりますが、キリストを信じる者たちの復活について、パウロはコリントの信徒への手紙で次のように記しています。
コリントの信徒への手紙Ⅰ15:51-55
「わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。『死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。』」
地上生涯を終えると私たちの魂はすぐに神のもとへと招き入れられます。
ですが、それで終わりではありません。「最後のラッパが鳴る時」これは最後の審判の時、キリストの再臨と神の国の完成の時のことです。その時、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられる。
私たちキリストを信じる者たちも、キリストに結ばれて復活するのです。
今日の話で言うなら、復活されたイエスのように、肉も骨もあるそういう肉体をもって復活する。しかし、今の体と全く同じではなく、違いもあります。コリントの信徒の手紙では、「朽ちないものとされる」とあります。これは、死ぬことがないということです。
しかし一方で、今の体と同じ点もあります。今日の箇所では、食事ができる、物が食べられるという所。
またイエスは、「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。」(ルカ24:39)と言われました。ですから、復活後に誰が誰やらわからないというのではなく、この私が私の肉体をもって復活する。
キリストを信じて地上生涯を全うした私は、やがて再び、わたしとして復活するということです。
ということは、今生きている私がある意味ずっとついて回るということです。今の私がいったんリセットされて全く変えられるのではないということです。そうであれば、今キリストに従ってしっかり生きること。神と隣人を愛して生きる今の歩みを充実させることが大切です。
このようにして、イエスは弟子たちがイエスの復活を信じられるようにと、何度も弟子たちの前にお姿を示してくださいました。疑い深い弟子たちに、ふさわしい仕方で現れてくださり、復活の事実を積み重ねてくださったのです。そして今も、疑い深い私たちに、み言葉と聖霊の働きを通して、復活のイエスがご自身をお示しくださっています。このことを信仰によって受け止め、今もこれから先も、主と共に生きる希望を持ち続けましょう。