2021年12月05日「願いを聞かれる神」

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願いを聞かれる神

日付
説教
木村恭子 牧師
聖書
ルカによる福音書 1章5節~25節

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聖句のアイコン聖書の言葉

ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。 二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた。
さて、ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき、祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた。すると、主の天使が現れ、香壇の右に立った。ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。
天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」
そこで、ザカリアは天使に言った。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」天使は答えた。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」民衆はザカリアを待っていた。そして、彼が聖所で手間取るのを、不思議に思っていた。ザカリアはやっと出て来たけれども、話すことができなかった。そこで、人々は彼が聖所で幻を見たのだと悟った。ザカリアは身振りで示すだけで、口が利けないままだった。やがて、務めの期間が終わって自分の家に帰った。
その後、妻エリサベトは身ごもって、五か月の間身を隠していた。そして、こう言った。 「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ルカによる福音書 1章5節~25節

原稿のアイコンメッセージ

今朝は、ルカ福音書1章5節以下から、イエスの誕生前の出来事を見ていきます。
ここは、新共同訳聖書の小見出しでは「洗礼者ヨハネの誕生、予告される」となっていますので、まあそういう話しです。
1:5 ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。
1:6 二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。
1:7 しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた。

今日の話の主人公はザカリアという祭司です。「アビヤ組の祭司」とあります。祭司の働きについてはダビデの時代に定められていて、歴代誌上24章に、その組み分けが記されています。
祭司は24組に分けられ、ザカリアの所属するアビヤ組は8番目の組でした。
「妻はアロン家の娘の一人」とあり、やはり祭司の娘でした。祭司と祭司の娘のカップル。そして、
1:6 二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。とあります。
ですから、二人は常に神を意識して、神の前に、正しい歩みをしようと努力していたのです。
そういう二人ですから、当然神から祝福されるはず!と思うのですが、二人の間には「子供がなく、二人とも既に年をとっていた」というのです。
ユダヤ人にとって子供は神からの祝福と考えられていましたから、二人も神からの祝福である子供が与えられるようにと、日々神に祈っていたはずです。しかし、その願いがかなわないままで高齢になり、人間的に、あるいは肉体的に、子供は望めない年齢に達していました。

そして、事件はザカリアが神殿での務めをしていた時に起こりました。
1:9 祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。
この言葉だけですと、祭司として日常の仕事に励んでいた時の出来事、と思ってしまいます。しかし、当時祭司の数は大変多くて、1万八千人とか2万人とも言われており、まあそこまでではないにしても、とにかく大勢だったようです。そしてその祭司が24組に分かれ、1週間ずつ交代で働く。その中でも「主の聖所に入って香をたく」のは1人です。ですから、1人の祭司が一生に一度するかどうかというのが「聖所に入って香をたく」という働きです。
このように、ザカリアにとって特別な働きをしている時に起こったのが、この事件でした。
彼が、神殿の一番奥の場所に一人で入って、香をたいていると、突然主の天使が現れました。

天使は言いました。
1:13「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。」と。さらに天使は言葉を続けます。
1:13bあなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。
1:14 その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。
1:15 彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、
1:16 イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。
1:17 彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」
天使は言いました。
「二人の間に男の子が誕生する、名前をヨハネとするように、彼は、人々を神に立ち帰らせる働き、主のために準備するものとなる」と。これは、マラキ書の預言の成就です。
マラキ3:23-24 
3:23見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。
3:24 彼は父の心を子に/子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって/この地を撃つことがないように。

彼は天使の言葉を聞いてどう感じたでしょうか? 
確かに、彼らの長年の願いは子供を与えてくださいという祈りでした。しかし、この時すでにザカリアも妻エリザベトも高齢で、肉体的には子供は望めない年齢に達していました。ですから、今更そんなことが・・・という思いがあったはずです。
あるいは、すでにその祈りは、二人にとって過去の祈りとなっていたかもしれません。
それで、ザカリアは天使に質問します。
1:18b「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」
天使は彼に一つの印を与えました。それは、「この事の起こる日まで話すことができなくなる。」というものでした。
そして天使はザカリアに大切な言葉を残したのです。
1:20b「時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」
そして、事の結末は、天使が告げた通りになり、エリザベトは妊娠し、二人の間に男の子が誕生するのです。それが57節以下に記されています。
子供が生まれ、ザカリアがその子の名前を「ヨハネ」と決めた時に、
1:64 すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。 と記されています。
洗礼者ヨハネの誕生です。

私たちがザカリアのような状況に置かれたら、私たちもザカリアのように考え、ザカリアのように天使に質問をするのではないでしょうか?
「そんなことがあるだろうか」、「何によって、それを知ることができるでしょうか」、「証拠を見せてほしい」。しかし、神はそういう私たちに対して何と答えられるでしょうか。
処女降誕をマリアに告げた天使は言いました。
ルカ1:37「 神にできないことは何一つない。」

私たちはすべてのことを、自分の尺度、人間の尺度で判断します。しかし、神は天地を創造し、今も治めておられる方。この自然界の上におられる存在です。私たちの尺度を超えたお方であることを覚える必要があります。
ご自身のご計画とご判断の中で、何でもおできになるから「神」なのです。
その神が、私に目を留め、私の人生を大切に、価値あるものとしてくださるのです。
ですから、天使の言葉を聞いたマリアはこう答えました。
ルカ1:38「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」
神を信頼し「お言葉どおり、この身になりますように」と言える歩み。そういう歩みこそが、本当の意味で「幸いな人生」ではないでしょうか。

また、今日の説教題は「願いを聞いてくださる神」です。
キリスト者の願いは当然、神への祈りとなります。
私たちは、大切な願いほど、時間をかけ、長く長く祈り続けます。ザカリア夫妻もそうであったでしょう。しかし、それが長い間聞かれないままで、彼らはそれが聞き届けられるのをあきらめてしまっていたのです。
しかし、天使はザカリアに言いました。
1:20 「あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」

この言葉は、願いが、祈りが実現するには「時」「神の時」があるのだと教えています。
私たちは、祈りの答えを性急に求めようとしますが、「神の時」がある。最もふさわしい「神の時」、「神の答え」がある。そのことを心に留めて祈りたいと思うのです。
性急に祈りが聞かれるのを求めるのではなく、じっくりと腰を据えて、神の答えを待ち続ける祈りをしていきたいと思うのです。
神は私たちの祈りを無視なさるお方ではありません。必ず目を留めておられると信じて、安心して祈り続けたいと思うのです。

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