2020年05月03日「主イエスがおられる食卓」

問い合わせ

日本キリスト改革派 川越教会のホームページへ戻る

主イエスがおられる食卓

日付
説教
木村恭子 牧師
聖書
ルカによる福音書 24章28節~35節

音声ファイルのアイコン音声ファイル

礼拝説教を録音した音声ファイルを公開しています。

聖句のアイコン聖書の言葉

一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。ルカによる福音書24章30節日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ルカによる福音書 24章28節~35節

原稿のアイコンメッセージ

<説教要約>
4月中、新型コロナウィルス肺炎の収束のために祈ってきましたが、まだ時間がかかりそうですね。緊急事態宣言も延長されるようですし、教会に集う礼拝の再開はもう少し先になりそうです。
毎週、教会で礼拝するのは当たり前、と思っていましたが、それが恵みだということに改めて気付かされています。ですが、それでもこのようにして、礼拝プログラムとみことばをお届けできることに感謝しています。忍耐の時ですが、今は信仰と健康の維持に心がけ、教会での礼拝再開に備えましょう。
今日は5月第1主日で、本来であれば聖餐式のある礼拝です。
共に聖餐式に与れないのは残念ですが、今日の説教を通して、聖餐式の意味についてご一緒に確認しましょう。

今日の箇所は、24章13節から話が続いていますので、前の所を復習してから今日の所に入ります。
イエスが十字架で死なれてからちょうど3日目のこと、二人の弟子がエマオ村へと急いでいました。
二人は「この方こそイスラエルを解放してくださる方」とイエスに望みをかけ、イエスに従っていた者たちです。しかしそのイエスが十字架刑に処せられ死んでしまったので、失意の中、逃げるようにしてエルサレムを離れエマオへと向かったのです。
その途上で、彼らに追いついて一緒に歩き始めた方がいました。実はその人こそが復活のイエスだったのですが、二人にはわかりませんでした。
二人はイエスに尋ねられるままに、エルサレムで起きた出来事、イエスの裁判、十字架と死、埋葬。そして、今朝墓が空になっていたことまでを話しました。
二人の話を聞き終わった時、イエスが言いました。
24:25「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、
24:26 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」
イエスは、彼らに足りなかったメシア理解について、旧約聖書から指摘なさいました。
メシアはこの世的な救世主ではなく、「メシアは苦しみを受けて栄光に入る」と記されていることを教えたのです。
イエスの話を聞いているうちに、そろそろエマオ村に近付きました。二人はここで泊まるつもりだったのですが、イエスはなお先へ行こうとしておられる様子でした。
ですが、イエスの話しに心惹かれ、もっと話を聞きたいと思い、イエスにも一緒に泊まって欲しいと懇願したところ、イエスは彼らと一緒に家に入られたのです。 

ところが、どうしたことでしょう。
食事の席に着くと、イエスは自分がその食卓の主人のように「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」のです。
しかし、その瞬間に、「二人の目が開け、イエスだと分かった」とルカは記します。

「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」
この行為は、二人の弟子にとって、とても幸いな、そして懐かしい記憶でした。
一行がまだガリラヤにいたときのこと。五つのパンと二匹の魚を五千人以上の人々に分け与えたときの出来事でした。
イエスの話を聞こうと集まった大勢の人々を、空腹のまま解散させないために、イエス自らが食事をふるまったあの事件です。ルカ福音書9章16節にこう記されています。
ルカ9:16 すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。
この時イエスは、「パンを裂き、感謝し、渡す」という一連の行為をなさいました。二人もその場にいて、この恵みに与ったのでしょう。主イエスが共におられる恵みの食卓です。その場にいた五千人以上の人々がみんな満腹になり、満足し、さらにパンくずが12籠も残ったというのです。
ここでは、イエスが共におられる食卓で与えられる恵みは、一人一人に十分であること。というより、それ以上に有り余るほどだったことが教えられています。
この恵みの思い出と、先ほどまでのイエスの聖書の解き明かしが二人の中で結びつくことで、目が開かれ、その方が復活のイエスだと分かったのです。

「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」
さらにこのフレーズは、最後の晩餐でイエスが聖餐式の制定をなさったときとも同じです。もっとも、最後の晩餐の食卓にいたのは12弟子だけでしたから、この二人はその場にいませんでした。しかしルカは、福音書の読者を意識して記しています。このシーンが最後の晩餐の時にイエスが制定された聖餐式、主の晩餐と同じ、イエスが共におられる食卓であると教えているのです。
最後の晩餐でのイエスの言葉はこうでした。
ルカ22:19 それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」
イエスは、最後の晩餐で、パンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えるという行為と、ご自身の十字架の贖いとを関係づけられたのです。

二人の弟子は、エマオ途上でイエスに会うまで、エルサレムで起きた出来事の意味を理解できず、失意の中にいました。しかしイエスにお会いして、イエスから聖書の解き明かしを受け、さらに聖餐式に与ることで、目が開かれ、その方が復活されたイエスだと分かったのです。目の前におられるイエスこそが、旧約聖書が語っている「苦しみを受けて栄光に入られたメシア」だと理解したのです。

その方が復活のイエスだと分かった瞬間、イエスの姿は二人の前から消えてしまいました。しかし今、彼らは、失意の中エマオへと急いでいた時とは全く違います。イエスが復活されたことを理解し、二人の心は、イエスから教えられた聖書の説明によって希望にあふれていました。それで、すぐにエルサレムにいる仲間の弟子たちの所へ戻りました。すると、仲間の弟子たちも、イエスの復活について話していました。復活のイエスがシモンに現れてくださったと。
24:35 二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

二人は、道々イエスに聖書を説明していただき、旧約聖書がイエスを証していることを教えていただきました。しかし、その方がイエスだとは気付きませんでした。その後、イエスは二人と食卓を共にし、そこで「パンを裂く」という行為によってご自身を示され、そこで二人は、その方が死から復活されたイエスだとはっきりわかったのです。
二人は復活のイエスに教えられて旧約聖書の預言を理解し、イエスが共におられる食卓、聖餐式に加えられて、目が開かれました。今でいうなら「み言葉と聖餐の礼典」を通して復活されたイエスがわかったということです。イエスを「罪からの救い主、復活の主」と知るためには、今も、この二つが必要です。

イエスが昇天された後、弟子たちはみ言葉と聖餐式と祈りを中心にして集まりました。
使徒言行録2:42 彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。
ここで「パンを裂くこと」と言われているのが聖餐式にあたります。その交わりに日々仲間が加えられ、キリストの教会が成長していきました。
今、私たちは、エマオ途上の弟子たちのように、復活のイエスに直接お会いすることはできません。
しかし、聖書の解き明かしを通してキリストに出会い、聖餐式に与ることでさらに目が開かれてキリストの恵みを確信することができます。聖餐式の主人は主イエスご自身です。その恵みの食卓に連なる私たちに、今も、有り余るほどの恵みを与えていてくださいます。
また聖餐式、恵みの食卓は、神の国の祝宴の前味、先取りとも言われます。
12弟子にとって最後の晩餐はイエスとの別れの食卓でした。
しかし、今日の箇所は、復活のイエスが共におられる食卓であり、やがて主イエスと再会するときの神の国の祝宴につながる、そういう食卓でもありました。
私たちが与る聖餐式も同じように、将来の祝福への希望があることを覚えたいと思います。

今、コロナ騒ぎで聖餐式が行えないのは本当に残念ですが、教会での礼拝再開と、礼拝の中で聖餐式に与る時が早く来るよう、祈りを合わせましょう。
また、一人でも多くの方が、共にこの恵みの食卓に与れるように、そのために、今はいろんな手段を用いて、広くみ言葉を届けることに力を注ぎたいと思います。

関連する説教を探す関連する説教を探す