2021年09月24日「担い、背負い、救い出す神」
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担い、背負い、救い出す神
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- 木村恭子 牧師
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イザヤ書 46章1節~7節
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聖書の言葉
ベルはかがみ込み、ネボは倒れ伏す。彼らの像は獣や家畜に負わされ/お前たちの担いでいたものは重荷となって/疲れた動物に負わされる。彼らも共にかがみ込み、倒れ伏す。その重荷を救い出すことはできず/彼ら自身も捕らわれて行く。
わたしに聞け、ヤコブの家よ/イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。 同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。
お前たちはわたしを誰に似せ/誰に等しくしようとするのか。誰にわたしをなぞらえ、似せようというのか。袋の金を注ぎ出し、銀を秤で量る者は/鋳物師を雇って、神を造らせ/これにひれ伏して拝む。彼らはそれを肩に担ぎ、背負って行き/据え付ければそれは立つが/そこから動くことはできない。それに助けを求めて叫んでも答えず/悩みから救ってはくれない。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
イザヤ書 46章1節~7節
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<説教要約>イザヤ書46章1-7節 「担い、背負い、救い出す」
先週は、礼拝後に敬老感謝の時を持ちました。ですが、礼拝説教は使徒言行録の続きを扱いました。ですので、今日改めて、敬老感謝を覚えたメッセージです。
今朝、与えられたみ言葉は、旧約聖書イザヤ書46章です。イザヤ書45、46章には、ペルシャ王キュロスによるバビロンからの解放とエルサレムの再建が語られています。
旧約聖書では、イスラエル民族が神の恵みを担う者として、神から特別に愛され扱われました。しかし、イスラエルの民はしばしばまことの神に背を向け、偶像礼拝へと走りました。そのために彼らは、大国バビロンに滅ぼされ、エルサレム神殿は破壊され、国を追われて捕囚の身になったのです。
しかし、神は彼らを見捨てたのではありませんでした。神は、かつてアブラハムに与えられた約束を覚えておられたのです。神は、アブラハムの子孫を用いて、やがて、地上のすべての民が神の祝福に入ると約束しておられたのです。
その約束は、何度も繰り返され、更新され、ついにはイエス・キリストによる救いとして現実となりました。今朝は、最初に、神がアブラハムに目を留められた時、彼に与えられた約束を見たいと思います。
①創世記12:1-4
12:1 主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。
12:2 わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。
12:3 あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」
12:4 アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。
アブラハムは「信仰の父」と言われる重要人物です。しかし、神が、まことの神を知らない民、偶像を拝む民の一員であったアブラハムに、目を留め、選んで、神の救いのご計画、御業を進められたのです。
そういう中でも、イスラエルの民は、ことあるごとに神から離れて偶像へと走り、その結果がバビロン捕囚でした。
しかし、反逆を繰り返すイスラエルの民に対して、神は、ご自身の約束のゆえに、もう一度まことの神のもとへ戻る機会を与えられました。そいれが、ペルシャのキュロス王による捕囚からの解放です。
今日のところ。
46:1 ベルはかがみ込み、ネボは倒れ伏す。彼らの像は獣や家畜に負わされ/お前たちの担いでいたものは重荷となって/疲れた動物に負わされる。
「ベル、ネボ」は、バビロンの人々が礼拝している神、偶像です。ベルは、バビロンの主神マルドゥクのヘブル名で、バビロンの守護神だそうです。ネボはベルの息子と考えられているそうです。
ベルもネボも、人の手で造られた偶像でありますから、
詩編115編にあるように
③詩115:4-7
115:4 国々の偶像は金銀にすぎず/人間の手が造ったもの。
115:5 口があっても話せず/目があっても見えない。
115:6 耳があっても聞こえず/鼻があってもかぐことができない。
115:7 手があってもつかめず/足があっても歩けず/喉があっても声を出せない。
というもの。
キュロスによってバビロンの神殿や町々が破壊されたとき、彼らの神々、ベルやネボは、動物に負われて逃げなければならないのです。
自分自身さえ救うことができないのですから、当然ながらその神々には、依り頼む人を救う力はありません。
46:2 彼らも共にかがみ込み、倒れ伏す。その重荷を救い出すことはできず/彼ら自身も捕らわれて行く。
次の3-4節は、バビロンに連れていかれたイスラエルの人々、捕囚を生き延びた人々や、そこで生まれた人々に対する言葉です。バビロン捕囚を通して、もう一度まことの神のもとへと立ち返ったイスラエルの民に対しての呼びかけの言葉です。
46:3 わたしに聞け、ヤコブの家よ/イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。
神は、彼らが生まれた時から、母の体を出た時から、神ご自身が彼らを担ってきた、と言います。
偶像は、動物に担われ運ばれますが、まことの神は、その反対。神がご自身の民を担われるのです。
46:4 同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。
4節で、神は、民が生まれ出た時から、白髪になり老人になるまで、背負っていく。まことの神は、ご自身の民を「担い、背負い、救い出す」。そういう神だと記されています。
46章3-4節、新改訳聖書2017年版は、こんな翻訳になっています。
「ヤコブの家よ、わたしに聞け。イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいたときから担(かつ)がれ、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。
あなた方が白髪(しらが)になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。」
今私たちは、捕囚の地にいるわけではありません。
しかし、偶像が周囲にたくさんある、異教の地にいるという点は、共通しています。
私たちの周囲には、神々と言われるもの、人が手で造ったものが神としてまつられているところがたくさんあります。しかし、そういう神々は、私たちを背負うことができず、助けを求めても、答えることはできず、私を悩みから救ってはくれません。
まことの神は、目で見ることができない、霊的な存在です。その神が、ただ一度、人として地上に現れ御自身を示してくださいました。イエス・キリストは、十字架を通して私たちに、神の愛を示してくださいました。そして今、キリストは神の右の座で、私たちに目を注ぎ、神に執り成してくださっています。
私たちに目を注ぎ、聖霊を送って助けを与えくださっています。
私たちが生まれた時から、白髪になるまで。白髪になっても、あるいは、髪の毛がなくなっても。
私たちが自分の足で歩けなくなって、礼拝に来られなくても。
神は、私たちが神を知り、信じる前から私を選び、救いへと招き入れてくださった方です。
ですから、たとえ私が年老いて、認知機能が衰え、神を忘れてしまったとしても、神は、私に目を注ぎ続け、人生の歩みを担い、背負い、救い出してくださるのです。
そういう神に担われている私たちは、地上生涯の最後まで、そして、永遠の命へと導き入れられるまで、安心して、希望をもって、生きることができるのです。私の力や努力ではなく、神が私を担い、背負い、救い出してくださいます。
私たちは、この神の真実に希望をもって、信仰の歩みを続けていきましょう。