2021年09月19日「聖霊の慰めと教会の基礎」
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聖霊の慰めと教会の基礎
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- 木村恭子 牧師
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使徒言行録 9章26節~31節
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聖書の言葉
サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。しかしバルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、サウロが旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した次第を説明した。それで、サウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し、主の名によって恐れずに教えるようになった。
また、ギリシア語を話すユダヤ人と語り、議論もしたが、彼らはサウロを殺そうとねらっていた。それを知った兄弟たちは、サウロを連れてカイサリアに下り、そこからタルソスへ出発させた。
こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
使徒言行録 9章26節~31節
メッセージ
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<説教要約>使徒言行録9章26-31節「聖霊の慰めと教会の基礎」
今日は26節からです。ダマスコからアラビアへ下り、そこで約3年アラビアに滞在し、いったんダマスコへ戻ったサウロが、今度はエルサレムに向かうというのです。
これは、サウロがクリスチャンになって初めてのエルサレム訪問です。目的は、エルサレム教会の弟子の仲間に加わることでした。サウロは、福音宣教の働きを続けるために、エルサレム教会の使徒たちに、正式にキリスト者として認められることが必要と考えたのです。あるいは、正式にエルサレム教会の信徒となって、働きに派遣されることを願ったのかもしれません。
しかし、サウロは、エルサレムのキリスト教徒たちにすんなり受け入れられませんでした。
サウロは、キリスト者の迫害をやめ、福音宣教を始めてすでに3年が経過していました。ですから、エルサレム教会の使徒たちに、受け入れてもらえると考えたかもしれません。しかし、実際には「キリスト教迫害者、サウロ」という強烈な印象が人々の間に依然として強く残っていたのです。
そんなサウロをエルサレムの弟子たち、とくに使徒たちに紹介したのがバルナバという弟子でした。
バルナバについては、使徒言行録4章37節に少しだけで簡単に紹介されています。
バルナバは、エルサレム教会の初期メンバーの一人で、しかも、自分の畑を売って教会に献金をするという信仰深い人でした。エルサレム教会の中でも信頼されている信徒だったはずです。
そのバルナバがサウロとどのように知り合い、どういう経緯でサウロを信用するようになったのか。
詳しいことは記されていません。しかし、確かなことは、神がサウロを支えるために、ふさわしい人物を彼のもとへと送って下さったということです。そして、エルサレム教会の使徒たちは、バルナバの仲介によってサウロを信用したのです。バルナバの助けがなければ、サウロがエルサレム教会の使徒たちに信用されるまでには、もっともっと時間がかかったはずです。
サウロはエルサレムでしばらく伝道しましたが、特に、ギリシャ語を話すユダヤ人にキリストを伝えました。29節に「 ギリシア語を話すユダヤ人と語り、議論もした」とあります。これは、自分が「異邦人への伝道に遣わされた」ことを意識しての行動と思われます。しかし、この行ことでまた命を狙われることになりました。
それで、
9:30 それを知った兄弟たちは、サウロを連れてカイサリアに下り、そこからタルソスへ出発させた。
とあります。
「兄弟たちは」とありますから、サウロはエルサレムの使徒たち、キリスト者に信用され、認められたということです。
さらに、「サウロを連れてカイサリアに下り、そこからタルソスへ出発させた。」とありますが、「出発させた」という言葉は「派遣した」とも読むことができる言葉です。
サウロは、命を狙われてエルサレムから逃げたのですが、キリスト教伝道者としてエルサレム教会から派遣された、ということでもあります。また、もっと言うならば、彼が送り出された先は「カイザリア、そしてタルソス」ですから、異邦人の地になります。神は、このようにして、ご自身の御業を進めていかれたのです。
最後の31節は重要です。
9:31 こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。
まず、この31節は、ある区切り、まとめの文章ですが、今日の話しだけのまとめではありません。
大きく言えば、使徒言行録1章からのまとめです。イエスの復活、昇天、エルサレム教会の成長、教会への大迫害、パウロの回心、そしてパウロがエルサレム教会に加わり、そこから異邦人伝道へと送り出された。また、31節の「教会」「エクレシア」という有名な言葉ですが、ここでは単数形になっています。ということは、この時点ではまだ教会は一つだけ、エルサレム教会しかないという状況です。
サウロが異邦人伝道へと遣わされることで、教会はここから新しい段階に入っていきます。
もう一つ、31節では、
教会が発展し、信者の数が増えるために必要なことが教えられています。
一つは、教会が広がりを持ってきても、全体は平和が保たれているということ。ユダヤ、ガリラヤ、サマリアという広い地域に信徒がいる状況ですが、それでもエルサレム教会として平和を保っている姿。神との平和と隣人との平和、その両方が保たれていることで、教会は発展していきます。
また、信者たちが「主を畏れている」こと。これは「神を恐がっている」ということではありません。生けるまことの神を信じ、キリストの十字架の贖いを信じ、永遠の命を信じて、神のみを礼拝すること。これが「主を畏れる」ということです。
そういう神の民に、「聖霊の慰め」聖霊の励ましが与えられ、信者たちがさらに生き生きと生活することになる。そういう教会に、信者がさらに加えられ、発展があるのです。
これは、いつの時代にも言えることではないでしょうか。教会の成長にとってなくてならないことは、昔も今も同じ。
「神の民が平和を保つこと。主を畏れ神を喜んで礼拝すること。そこに聖霊の慰めと励ました与えられるのです。」私たちも、このことを大切にしながら、教会生活に励み、教会の成長を目指したいと思います。
最後に、今朝の箇所からお話ししたいもう一つのこと。
それは、サウロが復活のキリストとの出会いを通して、パウロ自身が神の前に打ち砕かれ、謙虚にされたということです。
サウロは、イエスに出会った直後に目が見えなくなって、一人で歩くことさえできませんでした。人の助けを借りなければ歩けなかったのです。彼は本当に心細く、不安だったと思いいます。
その後、アナニアという主の弟子の助けによって、目が開き、洗礼が授けられました。アナニアが遣わされなければ、お先真っ暗という状況だったはずです。神がサウロのために備えてくださった助けです。
さらに、今日の箇所でも、バルナバが彼を助けています。バルナバの執り成しのおかげで、
9:28サウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し、主の名によって恐れずに教えるようになった。
のです。このように、いろんな人の助けがあってはじめて、サウロは異邦人伝道者というスタートラインに立つことができたのです。
でも、人の助けを借りることは、恥ずべきことではありません。私たちは、それぞれの人生の中で、隣人を助けたり、反対に助けられたりして生きていくのです。人は、一人の力では生きられない、そういう者として造られているからです。
また、特に神が、ご自身の御業を進めるとき、神の国の働きには、多くの人の賜物、働きを組み合わせ、生かしてお用いになります。ですから、私たちも互いのために賜物を用いていくこと。また、私も助けが必要という謙遜な思いを持っているべきなのです。
こういうことを経験し、成長したサウロは、後にローマの信徒への手紙でこんな風に教えています。
③ロ-マ12:1-3
12:1 こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。
12:2 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。
12:3 わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。
謙遜に、慎み深く、しかし神から与えられている賜物は大胆に用いて、神の教会と隣人に仕え、平和を保ちながら、信仰の歩みを続けていきましょう。
そういう歩みの上に、神の祝福があります。