2021年09月12日「人生は変えられる」
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人生は変えられる
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- 木村恭子 牧師
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使徒言行録 9章19b節~25節
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聖書の言葉
サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちと一緒にいて、すぐあちこちの会堂で、「この人こそ神の子である」と、イエスのことを宣べ伝えた。
これを聞いた人々は皆、非常に驚いて言った。「あれは、エルサレムでこの名を呼び求める者たちを滅ぼしていた男ではないか。また、ここへやって来たのも、彼らを縛り上げ、祭司長たちのところへ連行するためではなかったか。」 しかし、サウロはますます力を得て、イエスがメシアであることを論証し、ダマスコに住んでいるユダヤ人をうろたえさせた。
かなりの日数がたって、ユダヤ人はサウロを殺そうとたくらんだが、この陰謀はサウロの知るところとなった。しかし、ユダヤ人は彼を殺そうと、昼も夜も町の門で見張っていた。そこで、サウロの弟子たちは、夜の間に彼を連れ出し、籠に乗せて町の城壁づたいにつり降ろした。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
使徒言行録 9章19b節~25節
メッセージ
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<説教要約> 使徒言行録9章19b-25節「人生は変えられる」
今日は、19節の続きからです。
復活のイエスにお会いしたサウロは、一時は目が見えなくなりましたが、アナニアに助けられて目が見えるようになり、洗礼を受け聖霊で満たされて、心も体も元気になりました。
そして、なんと、サウロはすぐに、ダマスコで「この人こそ神の子である」と、イエスの福音を宣べ伝えたのです。これは、復活のイエスに出会い、直接教えられたこと、知らされた福音です。
サウロはもともと、ユダヤ教ファリサイ派のエリート教育を受けて、旧約聖書を深く学んでいました。そのうえで、復活のイエスの口を通して、旧約聖書が預言しているメシア、救い主がイエスだと示され「イエスこそ神の子である」と確信したのです。
ですから、サウロは、すぐあちこちの会堂で、「この人こそ神の子である」と、イエスのことを宣べ伝えることができたのです。彼の熱心の方向性、彼の人生は180度変えられたのです。
しかし、サウロの行為、行動は、ダマスコの人々に大きな衝撃を与えました。人々は、サウロがダマスコに来た目的を知っていたからです。それこそ「ミイラ取りがミイラになった」「説得するつもりが、説得されてしまった」というわけです。
ですが、復活のイエスに出会って教えられたのですから、当然と言えば当然の結果です。
次の23節は
9:23かなりの日数がたって、という言葉で始まっています。
ただ、少し前の19節を見ると「サウロは数日の間ダマスコの弟子たちと一緒にいた」 とあります。
ですから、22節と23節の間に、何か別のことがあったのかなあと想像するわけです。
実は使徒言行録には記されていないのですが、パウロ自身が書いた別の手紙を見ると、この辺の状況がもう少し詳しく記されています。「ガラテヤの信徒への手紙」を見たいと思います。-
ガラテヤ1:11-17
1:11 兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。
1:12 わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。
1:13 あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。
1:14 また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。
1:15 しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、
1:16 御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはせず、
1:17 また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした。
ここには、彼の人生が変えられた状況、理由が本人の口で語られています。
復活のイエスと出会って、イエスから直接、福音を知らされたこと。
そして17節を見ますと、サウロがダマスコからアラビアに退き、かなりの日数滞在し(実は3年余りそこにいたらしいのですが)その後再びダマスコに戻ったことが分かります。
使徒言行録9章23節で「かなりの日数がたって」とあるのは、この期間の話が省略されているのです。
しかし、サウロはダマスコでもアラビアでもキリストの福音を語っていましたので、ユダヤ教徒たちからの反発を受け、命を狙われることになりました。サウロの人生はイエスの弟子たちを迫害する側から、イエスの福音を宣べ伝える伝道者となり、迫害を受け命を狙われるものとなったのです。
サウロの人生は、復活のキリストと出会うことで180度変わりました。キリスト教の伝道者として命懸けで働くものとなったのです。その際、サウロは、過去の栄光を喜んで手放しました。
それがよくわかる箇所、フィリピの信徒への手紙3章5~11節を読みます。
3:5 わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、
3:6 熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。
ここまでが、ユダヤ教の若きエリート、サウロの過去の栄光です。
しかし、復活のイエスに出会い、キリストに捉えられた後のサウロの価値観は全く変わりました。
3:7 しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。
3:8 そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、
3:9 キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。
3:10 わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、
3:11 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。
彼はキリストを信じて多くのものを手放しました。しかし、比べ物にならないほど価値あるものを手にしたしました。それは復活のキリストと共に生きる希望、そして永遠の命の祝福です。
程度の差こそありますが、私たちがキリストを信じてクリスチャンになるときにも、越えなければならないハードルがあります。自分の人生の中で大切にしていたもを手放さなければならない、ということが起こります。ですが、過去をすべて手にしたままで信仰に入ることはできません。
今、イエス・キリストを信じて、クリスチャンとして歩んできた皆様がたは、それぞれの歩みの中で、いろんな形で手放してきたものがあると思います。親子関係や友人関係だったり、財産や名誉を手放した方もおられるでしょう。クリスチャンになるときに長男としての権利をすべて放棄した、などという話しも聞くことがあります。
でも、そういう方々もパウロが受けたのと同じ恵みと憐みが与えられて、ここまで歩んでこられたし、今歩んでおられると思います。さらに、この先のこと、死を超えた永遠の視点で考えるならば、ここからの恵みはさらに大きく価値あるもののはずです。
ですから、もし今信仰への一歩を踏み出そうかどうか迷っている方がいらっしゃるならば、躊躇することなく踏み出していただきたいと思います。
パウロはⅠテモテ1:14-15で告白しています。
わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。 「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。