2021年08月15日「キリストの平和」

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その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 20章19節~23節

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<説教要約>ヨハネ福音書20章19-23節 

8月は「戦争と平和を覚える月」、毎年8月15日に近い日曜日、主の日の礼拝では平和を考える礼拝を献げています。今年も聖書から「平和の意味」を考えましょう。今朝の説教題は「キリストの平和」です。
ところで、先日テレビニュースで、山梨県の甲府市の空襲のことが取り上げられていました。終戦の1か月少し前、7月7日に起こったので別名「七夕空襲」とも言われているとか。
ニュースは、この空襲のことを語り伝える活動を続けている元小学校教師の女性を紹介していました。彼女は退職後、地元に起こった空襲のことを山梨の小学生に語っているのです。熊谷空襲と同じように、ここでも一般市民が被害を受け、家や家族を失いました。実際に、そこに住んでいた自分たちのおじいさん、おばあさん、あるいはその上の世代の人の話ですから、聞く子供たちも他人事と思えないはずです。子や孫の世代が再び同じ過ちを繰り返さないためには、とても重要な働きだと感じました。
そして、彼女はこんな風に話を結んだのです。「戦争は、国と国とのケンカです。ケンカは人を憎む心から起こります。人を憎む心が大きくなると戦争になるのです。ですから、皆さんは、お友達を憎んだりしないで、やさしい心を持ちましょう。」
しかし、ここで私の中に一つの疑問が残りました。
罪ある私たち人間が、自分の力で「人を憎まない」こと、逆に言えば「人を愛すること」ができるのだろうか? という疑問です。
積極的に言うなら、どうすれば私たち人間が互いに愛し合うことができるのでしょうか?
今朝は聖書からそのことを考えたいと思います。

創世記4章1-8節を読みます。
「さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を得た」と言った。彼女はまたその弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。」

アダムとエバが罪を犯しエデンの園から追放された後の出来事です。
アダムとエバは、神の意志ではなく自分たちの思いを優先し、神が禁じていた園の中央にある「善悪の知識の木」の実を食べました。神に従うものではなく、神以上の存在になろうとしたのです。
ここで、神と人との平和の関係が崩れました。この後二人は、エデンの園から、神の恵みと祝福の地から追放されたのです。
そういうことがあった後で、アダムとエバの間に二人の男の子が与えられました。カインとアベルです。
兄のカインは土を耕す者、弟のアベルは羊を飼う者となりました。そしてある時、神を礼拝するためそれぞれ献げ物を持ってきたのです。ところが、そこで事件が起こりました。
「カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。」「アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。」とあります。二人とも、自分の収穫物を神に献げたのですが、ささげ方は違いました。
カインは「土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。」とあり、収穫物について特別な説明はありません。例えば、初物を持ってきたとか、よく熟れている物を選んできたとか。一方でアベルは「羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。」とあります。ここから読み取れるのは、二人の神に対する思いです。兄のカインは、とにかく何か献げ物をもっていこうという態度。アベルは、神に、できる限り良いものを献げたいという思いです。献げ物には、神に対する思いが現れていたのです。
神は、物事の表面ではなく心を見る方ですから、「主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。」のです。神は二人が献げた物に優劣をつけたのではなく、神への思い、神への愛の有無を評価なさったのです。
ところが、この出来事が殺人事件に発展しました。世界で最初の殺人事件です。
カインの心に生じたのは、弟への嫉妬であり、それが弟への憎しみとなりました。さらには、自分ではなく弟を評価した神への憎しみでした。その思いが最初の殺人事件になったのです。
ここで、先ほどの空襲を語り継ぐ女性の言葉 「戦争は、国と国とのケンカです。ケンカは人を憎む心から起こります。人を憎む心が大きくなると戦争になるのです。ですから、皆さんは、お友達を憎んだりしないで、やさしい心を持ちましょう。」という結論を思い出してみましょう。憎しみが争いを生み、殺人、戦争に発展する。これは決して間違っていません。ですから、やさしい心で隣人と仲良く生きることは大切です。
しかし、罪ある人間が、自分の意志や思いだけで、人を憎まず隣人と仲良く生きることは、本当に難しいことです。ですから、殺人や戦争が絶えないのです。

ここで、最初にお読みしたヨハネ福音書20章19節以下を見たいのです。
20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
これは、私たちの罪を贖うため、十字架にかかったイエスが、復活された後弟子たちの集まっているところへ姿を現された場面です。弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、戸に鍵をかけて家の中に隠れていましたが、復活のイエスが弟子たちの真ん中にお立ちになり「あなた方に平和があるように」と言われたのです。「平和があるように」とは、イエスの願いのことばではありません。「平和があります」という宣言です。この平和は、イエスが十字架上で勝ち取られた平和です。十字架上で苦しみ、血を流し、命と引き換えに勝ち取られた平和です。それは、罪の贖いによる神との平和であり、また人間同士の平和です。
罪のためにカインから始まった死の歴史が、十字架上のキリスト、殺された神の御子によって終りを迎えたのです。主イエスはご自身の身を犠牲にして、カインによってはじめられた殺人の歴史、死の歴史を塗り替えてくださったのです。主イエスは、弟子たちに自らの手とわき腹の傷を指し示し、彼らの真ん中に立って「あなたがたに平和がある」と宣言なさいました。
21節でさらに言われました。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」ここも、「平和があります」という宣言です。
イエスの十字架によって、イエスの弟子たちにはすでに平和が与えられている。これは神との平和であり、人との平和でもあります。
ですから、イエスは弟子たちを平和の使者として「神との平和と人との平和を語る者、造り出すもの」として、派遣すると言われたのです。キリストの十字架による罪の赦しを信じる弟子たちは、罪赦されており、もはや罪に支配されていないので、福音の使者として、平和の使者として、世に遣わされるのです。
キリスト者は、最初にお話しした語り部の方の結論、「戦争は、国と国とのケンカです。ケンカは人を憎む心から起こります。人を憎む心が大きくなると戦争になるのです。ですから、皆さんは、お友達を憎んだりしないで、やさしい心を持ちましょう。」というメッセージに、応えることができる者とされているのです。
イエスは、さらに言葉を続けています。22、23節 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
イエスは弟子たちにご自身の息、キリストの霊をお与えになりました。聖霊はイエスが天にお帰りになったあと、弟子たちの助けです。そして、聖霊は今も、イエスを信じる者と共に働かれます。
イエスを主と信じる私たちに、また十字架による罪の贖いと赦しを信じる私たちに、神を愛する愛と隣人を愛する愛が与えられており、また愛しぬくための助けが与えられているのです。

そして今主イエスは、わたしたちに、ご自身の手の釘跡とわき腹の傷をお示しになり、「わたしはあなたの罪を贖った。だからあなたの罪は赦されている。」といわれます。
だから、あなたがたは、神との平和の道を語り、人を愛する歩みを続けるように、と語っておられるのです。また、そのために私たちに聖霊の助けがあることも忘れてはなりません。

最後に、讃美歌を紹介します。「キリストの平和」という讃美歌です。
カトリックの司祭である塩田泉という方の作詞作曲で、日本的な旋律の歌いやすい讃美歌です。
ここでは1番の歌詞を紹介しておきます。
「キリストの平和が わたしたちの 心の 隅々にまで いきわたりますように」
「キリストの平和が わたしたちの 心の 隅々にまで いきわたりますように」

私たちが、神との平和、隣人との平和、ひいては世界の平和を考える時に、その基礎、おおもとになるのがキリストの平和、キリストが勝ち取られた平和です。
今日の平和メッセージを心に覚えながら、讃美いたしましょう。

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