音声ファイル 礼拝説教を録音した音声ファイルを公開しています。 再生できない方はこちらをクリック 聖書の言葉 さあ、わが民よ、部屋に入れ。戸を堅く閉ざせ。しばらくの間、隠れよ。激しい生きどうりが過ぎ去るまで。 イザヤ書26章20節日本聖書協会『聖書 新共同訳』イザヤ書 26章20節 メッセージ 中心的主張点: イエス様は聖なる神の 罪に対する怒りを全て 私たちに代わって受けてくださった。悔い改めてイエス様に依り頼めば、激しい憤りの時にも守られて、イエス様の命に与る。イザヤ書26章20節(新共同訳)さあ、わが民よ、部屋に入れ。戸を堅く閉ざせ。しばらくの間、隠れよ、激しい憤りが過ぎ去るまで。序説:この イザヤ26章20節は 「新型コロナウィルスのための聖句」ではないか!最近、ある人はこの聖句を引き出して、この頃の新型コロナウィルスの流行の実態に対する前例で、今の状況に対する最高のアドバイスのではないかと指摘しています。はるか昔の言葉ではありますが、今日的な響きがあります!同時にもう一つのもっと昔の出来事の響きもあります。それは出エジプトの出来事です。1、受難週と復活祭の背後にある過越祭を思い出しましょう。イ、旧約聖書に親しみましょう:新約の背後にあるからです。天地創造、罪への堕落、創造主のご自分の民を救う計画、救い主の到来の預言など、これら全部が紀元前に記された旧約聖書にあります。今は、出エジプトの出来事の一部を確認しましょう。ロ、紀元前15世紀のエジプトの出来事が出エジプト記11−12章に記されています。エジプトの国に奴隷とされていたイスラエルの民を神様が顧みて、彼らが解放されて神様が約束してくださったカナンの地に導くところです。心のかたくななエジプトの王は解放しないところ、神は、10の災害をエジプトに下すことにします。その最後が最も恐ろしくて、ある夜の間、天から降って、エジプトを行き巡り、全ての家の長子を滅ぼす者が現れると神はあらかじめ注意します。その滅ぼす者の手から救われるために、各家庭はその長子の身代わりとして小羊を屠り、その血を門柱に塗りなさいと命じておきます。滅ぼす者はその血を見たら、何の害を加えることなく、過ぎていくとのことでした。ハ、要するに、神の怒りが現れる時に逃れ場に入り込み、身代わりの小羊の血に守られたわけです。エジプトの国中にこれが実現すると、エジプトの王はイスラエル人の解放を命じて、イスラエルの民は奴隷状態から自由にされ、約束の地に旅立ちます。この時もやはり、「逃れ場」があって、悪いものが過ぎ去っていくまで、そこで隠れていました。イザヤの言葉を確認しましょう:「さあ、わが民よ、部屋に入れ。戸を堅く閉ざせ。しばらくの間、隠れよ、激しい憤りが過ぎ去るまで。」ニ、この出来事を毎年記念するのは「過越祭」です。ちょうどイエス様の受難の時に廻ってきていました。イエス様もあらかじめ、ご自分がこの時に民のために十字架にかかることになると弟子たちに予告しましたが、ついに実現しました。ホ、ですけれども、今度はほふる身代わりが子羊ではなく、「世の罪を取り除く神の小羊」と呼ばれていたイエス様ご自身です。この方こそが本当の身代わりです。私たち人間の罪を担ってその償いの代価としてご自身を捧げます。でも弟子たちはこの時に、自分自身も滅ぼされるのではないかと恐れて、皆は隠れ場に逃げ込みます。2、旧約時代にたまたま現れる神の怒りと今日の試練の共通点と相違点を考えましょう。イ、この世界に色々な災害によって、神の罪に対する怒りが現れてくるとローマの信徒への手紙1章18節が語ります。「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます」と。つまり、古くからこの世界において創造主に背く人間の罪によって、神様の怒りと裁きを招くと言います。今日もそうです。反逆、不義、弱いものを圧迫すること、種々の罪、これらがあって不幸なことがいろいろやってくると聖書から理解します。ロ、イザヤは 神の民を圧迫する者たちに対する神の厳しい裁きを述べます。同時に、神様のことを知りながら無視して、自分勝手な道に出て行く人々もいます。このようなものに対して現れるのは、「神の憤り」です。恐ろしい言葉ですね。私がこのように話すとおそらく、「理解しがたい」つまり納得がいかないという人が大勢いますが、これが聖書の教えです。思い出します。東日本大震災が起こった時に、その当時の東京都知事石原慎太郎さんは、「これが私たちの傲慢の罪のせいです」と言い出しました。ハ、今日にも悪の世と不誠実な民がおり、イザヤの攻めの言葉を聞くと耳が痛いです。そして、その裁かれた地と民の姿を読めば、まるで無人となった私たちの都会のような様子があります。けれども、私たちは罪を認めるよりは 神様を攻め、「愛の方ではなかったか。」と反発し、「神などいない!」とさらにひどい状態に陥りがちです。二、神の裁きが下される時に、神の民はどうするのでしょうか。「自分の敵をやっつけてくれた。」とほくそ笑むでしょうか。それは人間くさい反応ですが、神の裁きは今度は自分がその対象になれば、と恐れ多く、へりくだって、自分の罪を悔い改めるべきではないでしょうか。3、イエス様が私たちに代わって世の罪を負い、裁きを受けたなら、どうして今も災害があるでしょうか。イ、今も人間の悪はなお盛んにあり、世界に対する神の怒りの表れもある。一般論ですが、神の掟を破り、預言者の忠告を無視し、自分の良心の声に耳を塞(ふさ)げるなら、天国を期待することができると思うでしょうか。厚かましい思いですね。ロ、でもグッドニューズがあります:キリストは実にその信じる民の罪を全て背負ってくださり、これを完全に贖って、信じて依り頼む人を赦してくださいます。ハ、先日、ある英語の新聞によく登場する漫画家の作品を見ました。旧石器時代を生きるある人は仲間に、「グッド•フライデー(Good Friday=『嬉しい金曜日』、受難日に相当します)という表現が嫌い」と言い出します。「どうして『グッド』なのだろうか?」そうしたら仲間は、「イエス様が十字架につけられて死んだのは何曜日だったか。」と聞きます。答えは、「金曜日でした。」「その通り。ではもし、自分に払いきれない大きな負債があって誰かが代わってその負い目を全部完済してくれたなら、どんな気持ちになりますか。」と聞くと、「グッドな気持ちですね!」「正解。イエス様の死はこんな効力があるわけですから、この上もない喜びの日ですね。」私たちも「受難日」に変えて「グッド•フライデー」と呼びましょうか。二、神に忠実に仕える民はこんな時にどうするべきでしょうか。弟子たちはその時点、理解力が鈍くて、起きた次第によっておびえて、逃れ場に隠れています。まるで、イザヤ26:20に従っている通りです!けれどもついに、「激しい憤り」が過ぎ去って、完全な救いの時がやってきます。それは三日目に主イエスは死者の中から復活なさり、すべての怖れを取り除いて、彼らに平和をくださいます。「シャローム!」4、復活のキリストは共にいてくださり、たとえ、苦しい中であっても、平安を備えてくださいます。イザヤ26章1−3節を読みます(p.1099)。「その日には、ユダの地でこの歌がうたわれる。我らには、堅固な都がある。救いのために、城壁と堡塁(ほうるい)が築かれた。城門を開け/神に従い、信仰を守る民が入れるように。堅固な思いを、あなたは平和に守られる/あなたに信頼するゆえに、平和に。」イエス様ご自身がこれを彼らに、私たちに備えてくださいます。イ、「悔い改めて福音を信じる」こと。いつも、すべてがこれにかかっています。へりくだって主を待ち望む民にはとうとう救いが与えられます。必ず。完璧な救い!ロ、世にいる限りは艱難があるが、イエス様は世のあらゆる悪に勝っていると弟子たちに話しました通りです。私たちをキリスト•イエスによって示された愛から引き離すものは何かあるだろうかと使徒パウロか聞きます。「いいえ。何もありません!」と。有名なローマの信徒への手紙8章ですね。読みます:p.285です。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。...これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:35-39)ハ、ですから、今日も大変な事態になった時に、常識的に逃れ場に逃げ込みながらも、救いの道を固く信じ、できる限りこの道を語り伝え続けましょう。これは世の初めから、エジプトにいた時も、イエス様がこの地上にいた時も、様々な迫害があった時も、困難にあった時も、また、ウィルス流行の今も、私たちの喜びと平和を保つ道です。そればかりか、昔の主の民がしたように、私たちも 困窮にある方々に隣人愛をもって関わり、助けの手を伸べるのです。たとえ、自分の命の危険が伴っても、病院や施設で働き、困った人々の力になっていきます。 決論:私たちが最も暗闇のただ中にあって苦しみを味わっても、「インマヌエル(我らと共におられる神)」でいらっしゃる主は共にいてくださる。この方が光を与える。そして、その福音を言葉と行動をもって伝える、知らせる機会を備えてくださる。最後に詩篇30編の助言に聞きましょう。「主の慈しみに生きる人々よ/主に賛美の歌をうたい/聖なる御名を唱え、感謝をささげよ。ひととき、お怒りになっても/命を得させることを御旨としてくださる。泣きながら夜を過ごす人にも/喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる」(詩篇30編5−6節)。 アーメン。 関連する説教を探す 2020年の日曜朝の礼拝 『イザヤ書』
中心的主張点: イエス様は聖なる神の 罪に対する怒りを全て 私たちに代わって受けてくださった。悔い改めてイエス様に依り頼めば、激しい憤りの時にも守られて、イエス様の命に与る。
イザヤ書26章20節(新共同訳)さあ、わが民よ、部屋に入れ。戸を堅く閉ざせ。しばらくの間、隠れよ、激しい憤りが過ぎ去るまで。
序説:この イザヤ26章20節は 「新型コロナウィルスのための聖句」ではないか!
最近、ある人はこの聖句を引き出して、この頃の新型コロナウィルスの流行の実態に対する前例で、今の状況に対する最高のアドバイスのではないかと指摘しています。はるか昔の言葉ではありますが、今日的な響きがあります!同時にもう一つのもっと昔の出来事の響きもあります。それは出エジプトの出来事です。
1、受難週と復活祭の背後にある過越祭を思い出しましょう。
イ、旧約聖書に親しみましょう:新約の背後にあるからです。天地創造、罪への堕落、創造主のご自分の民を救う計画、救い主の到来の預言など、これら全部が紀元前に記された旧約聖書にあります。今は、出エジプトの出来事の一部を確認しましょう。
ロ、紀元前15世紀のエジプトの出来事が出エジプト記11−12章に記されています。エジプトの国に奴隷とされていたイスラエルの民を神様が顧みて、彼らが解放されて神様が約束してくださったカナンの地に導くところです。心のかたくななエジプトの王は解放しないところ、神は、10の災害をエジプトに下すことにします。その最後が最も恐ろしくて、ある夜の間、天から降って、エジプトを行き巡り、全ての家の長子を滅ぼす者が現れると神はあらかじめ注意します。その滅ぼす者の手から救われるために、各家庭はその長子の身代わりとして小羊を屠り、その血を門柱に塗りなさいと命じておきます。滅ぼす者はその血を見たら、何の害を加えることなく、過ぎていくとのことでした。
ハ、要するに、神の怒りが現れる時に逃れ場に入り込み、身代わりの小羊の血に守られたわけです。エジプトの国中にこれが実現すると、エジプトの王はイスラエル人の解放を命じて、イスラエルの民は奴隷状態から自由にされ、約束の地に旅立ちます。この時もやはり、「逃れ場」があって、悪いものが過ぎ去っていくまで、そこで隠れていました。イザヤの言葉を確認しましょう:「さあ、わが民よ、部屋に入れ。戸を堅く閉ざせ。しばらくの間、隠れよ、激しい憤りが過ぎ去るまで。」
ニ、この出来事を毎年記念するのは「過越祭」です。ちょうどイエス様の受難の時に廻ってきていました。イエス様もあらかじめ、ご自分がこの時に民のために十字架にかかることになると弟子たちに予告しましたが、ついに実現しました。
ホ、ですけれども、今度はほふる身代わりが子羊ではなく、「世の罪を取り除く神の小羊」と呼ばれていたイエス様ご自身です。この方こそが本当の身代わりです。私たち人間の罪を担ってその償いの代価としてご自身を捧げます。でも弟子たちはこの時に、自分自身も滅ぼされるのではないかと恐れて、皆は隠れ場に逃げ込みます。
2、旧約時代にたまたま現れる神の怒りと今日の試練の共通点と相違点を考えましょう。
イ、この世界に色々な災害によって、神の罪に対する怒りが現れてくるとローマの信徒への手紙1章18節が語ります。「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます」と。つまり、古くからこの世界において創造主に背く人間の罪によって、神様の怒りと裁きを招くと言います。今日もそうです。反逆、不義、弱いものを圧迫すること、種々の罪、これらがあって不幸なことがいろいろやってくると聖書から理解します。
ロ、イザヤは 神の民を圧迫する者たちに対する神の厳しい裁きを述べます。同時に、神様のことを知りながら無視して、自分勝手な道に出て行く人々もいます。このようなものに対して現れるのは、「神の憤り」です。恐ろしい言葉ですね。私がこのように話すとおそらく、「理解しがたい」つまり納得がいかないという人が大勢いますが、これが聖書の教えです。思い出します。東日本大震災が起こった時に、その当時の東京都知事石原慎太郎さんは、「これが私たちの傲慢の罪のせいです」と言い出しました。
ハ、今日にも悪の世と不誠実な民がおり、イザヤの攻めの言葉を聞くと耳が痛いです。そして、その裁かれた地と民の姿を読めば、まるで無人となった私たちの都会のような様子があります。けれども、私たちは罪を認めるよりは 神様を攻め、「愛の方ではなかったか。」と反発し、「神などいない!」とさらにひどい状態に陥りがちです。
二、神の裁きが下される時に、神の民はどうするのでしょうか。「自分の敵をやっつけてくれた。」とほくそ笑むでしょうか。それは人間くさい反応ですが、神の裁きは今度は自分がその対象になれば、と恐れ多く、へりくだって、自分の罪を悔い改めるべきではないでしょうか。
3、イエス様が私たちに代わって世の罪を負い、裁きを受けたなら、どうして今も災害があるでしょうか。
イ、今も人間の悪はなお盛んにあり、世界に対する神の怒りの表れもある。一般論ですが、神の掟を破り、預言者の忠告を無視し、自分の良心の声に耳を塞(ふさ)げるなら、天国を期待することができると思うでしょうか。厚かましい思いですね。
ロ、でもグッドニューズがあります:キリストは実にその信じる民の罪を全て背負ってくださり、これを完全に贖って、信じて依り頼む人を赦してくださいます。
ハ、先日、ある英語の新聞によく登場する漫画家の作品を見ました。旧石器時代を生きるある人は仲間に、「グッド•フライデー(Good Friday=『嬉しい金曜日』、受難日に相当します)という表現が嫌い」と言い出します。「どうして『グッド』なのだろうか?」そうしたら仲間は、「イエス様が十字架につけられて死んだのは何曜日だったか。」と聞きます。答えは、「金曜日でした。」「その通り。ではもし、自分に払いきれない大きな負債があって誰かが代わってその負い目を全部完済してくれたなら、どんな気持ちになりますか。」と聞くと、「グッドな気持ちですね!」「正解。イエス様の死はこんな効力があるわけですから、この上もない喜びの日ですね。」私たちも「受難日」に変えて「グッド•フライデー」と呼びましょうか。
二、神に忠実に仕える民はこんな時にどうするべきでしょうか。弟子たちはその時点、理解力が鈍くて、起きた次第によっておびえて、逃れ場に隠れています。まるで、イザヤ26:20に従っている通りです!けれどもついに、「激しい憤り」が過ぎ去って、完全な救いの時がやってきます。それは三日目に主イエスは死者の中から復活なさり、すべての怖れを取り除いて、彼らに平和をくださいます。「シャローム!」
4、復活のキリストは共にいてくださり、たとえ、苦しい中であっても、平安を備えてくださいます。イザヤ26章1−3節を読みます(p.1099)。
「その日には、ユダの地でこの歌がうたわれる。我らには、堅固な都がある。救いのために、城壁と堡塁(ほうるい)が築かれた。城門を開け/神に従い、信仰を守る民が入れるように。堅固な思いを、あなたは平和に守られる/あなたに信頼するゆえに、平和に。」イエス様ご自身がこれを彼らに、私たちに備えてくださいます。
イ、「悔い改めて福音を信じる」こと。いつも、すべてがこれにかかっています。へりくだって主を待ち望む民にはとうとう救いが与えられます。必ず。完璧な救い!
ロ、世にいる限りは艱難があるが、イエス様は世のあらゆる悪に勝っていると弟子たちに話しました通りです。私たちをキリスト•イエスによって示された愛から引き離すものは何かあるだろうかと使徒パウロか聞きます。「いいえ。何もありません!」と。有名なローマの信徒への手紙8章ですね。読みます:p.285です。
「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。...これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:35-39)
ハ、ですから、今日も大変な事態になった時に、常識的に逃れ場に逃げ込みながらも、救いの道を固く信じ、できる限りこの道を語り伝え続けましょう。これは世の初めから、エジプトにいた時も、イエス様がこの地上にいた時も、様々な迫害があった時も、困難にあった時も、また、ウィルス流行の今も、私たちの喜びと平和を保つ道です。そればかりか、昔の主の民がしたように、私たちも 困窮にある方々に隣人愛をもって関わり、助けの手を伸べるのです。たとえ、自分の命の危険が伴っても、病院や施設で働き、困った人々の力になっていきます。
決論:私たちが最も暗闇のただ中にあって苦しみを味わっても、「インマヌエル(我らと共におられる神)」でいらっしゃる主は共にいてくださる。この方が光を与える。そして、その福音を言葉と行動をもって伝える、知らせる機会を備えてくださる。
最後に詩篇30編の助言に聞きましょう。「主の慈しみに生きる人々よ/主に賛美の歌をうたい/聖なる御名を唱え、感謝をささげよ。ひととき、お怒りになっても/命を得させることを御旨としてくださる。泣きながら夜を過ごす人にも/喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる」(詩篇30編5−6節)。 アーメン。