2021年07月04日「終末の先取り」

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だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。
わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです。
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
コリントの信徒への手紙二 4章16節~5章5節

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<説教要約>コリントⅡ4章16節-5章5節 「終末の先取り」

今朝は聖餐式の意味について覚える礼拝説教です。聖餐式の意味は一つではありません。聖餐式に与ることで私たちはいろんなことを覚えることができますが、今朝は、「終末の先取り」というテーマでお話しします。

新共同訳聖書には「終末」という表現はありませんが、「終わりのとき」とか、「世の終わり」という表現で「終末」を教えています。例えばルカ福音書21章7節以下は「終末の徴」と題して主イエスの教えが記されています。
今朝、まず私たちが覚えたいことは、「この世界には始めと終わりがある」ということです。
神の言葉、つまり神の意志と力ある神の業によって始まったこの世界は、終わりがあると聖書は教えます。
聖餐式は、終わりのとき、「終末」の「先取り」という意味があります。

2021年3月に新しい礼拝式文ができまして、聖餐式の式辞もいろんな角度から聖餐式の意味をまとめたものが加えられました。その中で、今朝は「終末の先取り」という式辞に注目して説教をしているのですが、その礼拝式文をお読みします。
「主の晩餐で用意されている要素はパンと杯です。キリストは、教会員が集まるたびに主ご自身を記念してこのように行いなさいと言われてパンを裂き、また、杯から飲まれました。教会はいつもキリストの命令通りに、主が再び来られる時まで、主の晩餐の礼典を守り続けます。わたしたちはこの世にあっては信仰の戦いがありますが、この食卓は終わりのときにあたえられるわたしたちの救いを保証します。主イエス・キリストにあって、キリストの贖いにあずかる者は必ず栄光の内に入れられるとの約束を信じて、パンと杯に与りましょう。」

この内容を頭に入れて、コリントの信徒への手紙Ⅱを見ていきましょう。
4:16だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。
「だから」とありますから、当然前の文章からの続きです。これは、4章14-15節です。
Ⅱコリント4:14 主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。
4:15 すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです。

パウロは、この世の終わり、終末に、自分もコリント教会の信者たちも、一緒に復活の恵みに与り、神の国に入れられる。豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すときがくることを確信しています。
ですから、今どのような困難の中にあっても、落胆しない、というのです。
何故なら、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていくからだパウロは語ります。「内なる人」とは、人間の内にある心、ではありません。信仰によってキリストに結ばれ、キリストの御霊が与えられた命のこと。パウロはここで信仰者の全人格、キリストに結ばれた新しい命のことを<内なる人>と表現しているのです。
私たちがキリストを信じ、信仰をもって生きているなら、わたしの内に神の霊が生きて働いておられて、日々神の国の民にふさわしい者として、新らしくされていく、というのです。それは、苦難の中でも、肉体の病や年齢を重ね老化していく中でも、あるいは、認知機能が衰えて神を忘れてしまったように見えたとしても、です。
ですからパウロは、
二コリ4:18 わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。 というのです。

5章1-5節の表現は少しわかりにくいかもしれませんが、少しずつ見ていきましょう。
二コリ5:1 わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。
「地上の住み家である幕屋」とは、私たちの肉の体をもって歩む地上生涯のこと。
「神によって備えられている建物」「天にある永遠の住みか」は、やがて与えられる復活の体、新しい世界での命のことです。
それが分かると2節も理解できますね。
二コリ5:2 わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。
ここには、地上で、信仰者たちには労苦、肉体の苦しみがあることが記されています。キリストを信じたら、幸いな人生が待っている、とは言わないのです。キリスト者にも苦しみがあるのです。パウロも、地上で肉体のとげ、苦しみがあり、さらには福音宣教に伴う様々な試練、戦いがありました。
そして地上生涯において苦労、苦しみがあるのは、パウロだけではありません。形は違うけれど、大なり小なり、私たちにもあります。

4節では、「この幕屋」つまり地上生涯においては、キリストを信じ、キリストの霊に結ばれて歩んでいても「重荷を負って」おり、いろんな苦しみに押しつぶされそうになることがあるけれど、パウロは、その現実から逃げ出したいとは言いません。そうではなく「天から与えられる住みか」つまり復活の体を「上に着たい」というのです。
ここから、地上の体と復活の体が無関係ではないことがわかります。私たちの今の体が贖われて復活の体へと変えられるのです。ということは、今私たちが地上で経験している具体的な、一つ一つの苦しみや試練も意味があり、やがて復活の体へとつながっていく、あるいは生かされていく、と言いたいのだと思うのです。
そして5節。
5:5わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです。
ここはギリシャ語の過去分子が使われています。つまり、神はもうすでに私たちを、神の祝福にあずかるにふさわしい者としてくださっている、とパウロは言うのです。
そして、最後に「神はその保証として“霊”を与えてくださった」と記しています。
キリストを信じ、キリストに従って歩む者には、地上人生の中で様々な苦しみがあったとしても、地上で既に、終末の祝福にあずかる保証として、神の霊が与えられている。
そして聖霊が与えられていること、聖霊の助けがあることは、やがて与えられる復活の命の保証なのです。
さらに、神の霊が与えられていることの見える印、目で見て感じ、味わうことができる印として、「聖餐の礼典」「聖餐式」がある。この話はそういうふうにつながっていくのです。
これは、先ほどの式文の特に後半部分で言われている通りです。
「主の晩餐で用意されている要素はパンと杯です。キリストは、教会員が集まるたびに主ご自身を記念してこのように行いなさいと言われてパンを裂き、また、杯から飲まれました。教会はいつもキリストの命令通りに、主が再び来られる時まで、主の晩餐の礼典を守り続けます。
わたしたちはこの世にあっては信仰の戦いがありますが、この食卓(聖餐式)は終わりのときにあたえられるわたしたちの救いを保証します。主イエス・キリストにあって、キリストの贖いにあずかる者は必ず栄光の内に入れられるとの約束を信じて、パンと杯に与りましょう。」                 

聖餐式は、この地上においてキリストを信じる者たちが、既にキリストの霊である聖霊を受けて、キリストと共に生きており、やがて神の国で神との親しい交わり、祝福の食卓に与ることの確認です。ですから、聖餐式は終末の先取りなのです。

聖餐の礼典に安心して与れる日を共に祈り求めていきましょう。

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