2021年06月27日「最初の殉教者」
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最初の殉教者
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- 木村恭子 牧師
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使徒言行録 7章54節~60節
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聖書の言葉
人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右にたっておられるイエスとを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。 人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。
人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
使徒言行録 7章54節~60節
メッセージ
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<説教要約> 使徒言行録7章54-60節「最初の殉教者」
私たちは使徒言行録7章に記されている、ステファノの説教を学んできました。
先週はその結論部分51-53節を見ました。その長い説教の結論部分7章52節で、あなたがたの先祖は、メシア、救い主が来られると預言した神からの預言者たちを殺した。そして今度は、メシアであるイエス・キリストが来られたのに、その方を殺したのだ、と言い話を結びました。
この言葉を聞いて、その場にいた人々は激怒しました。
7:54 人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。今、人々の怒りは頂点に達し、誰もこの状況を抑えることができないほどになりました。
ステファノは、自分の話しに激怒する多くの人々の真ん中にいましたけれど、彼の心はもう人々に向いてはいませんでした。彼は怒り狂う人々のただなかにいるのに、静に天を見上げていました。ルカは
7:55 「ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ」ていたと記しています。
ステファノは、聖霊に助けられて、最高法院でユダヤ人たちを相手に、示されたイエス・キリストの福音、弁明を語り尽くしました。与えられた使命を十分果たしたのです。
そして今彼の心は既に地上ではなく、天におられる方に向けられていたのです。ルカはその様子を「神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見た」と記しています。
ステファノは、言いました。7:56 「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と。
ステファノには確かに、彼をずっと支え続け、そして今彼をご自身のもとへと迎え入れようとしておられるイエスが見えたのです。通常なら、神の横に座っておられるイエスが、今この時には、身を乗り出すようにして、ステファノを待ち構え立っておられた。ステファノにはそのように見えたのです。
一方で、人々は大声で叫び、同時に耳を手でふさぎましたもう、自分の声しか聞こえない、正常な判断ができない状況で、ステファノに一斉に襲いかかりました。
力づくでステファノを都外へ引きずり出し、手に手に石をもって、ステファノめがけて投げつけました。
しかし、この石打の刑は、神の名を冒涜したものに対するユダヤ教の正式な死刑の方法でもありました。
ステファノはこの時すでに死を覚悟していました。ですから、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」とイエスに呼びかけました。彼は地上生涯の最後、死に際して、自分の霊を主イエスにゆだねました。
わたしの罪のため、十字架につけられて死なれた、あの主イエス。そして今、天から身を乗り出すようにしてステファノを見つめておられる主イエスに、自分の魂をお任せしたのです。
そしてもう一言叫びました。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と。彼は死の間際に、自分を殺そうとしている人々のために、赦しを求めて神に祈りました。これは、主イエスが十字架の上で祈られた祈りと同じです。
今日のメッセージでは、特に二つのことを覚えたいと思います。
一つのことは、イエス・キリストを信じ従って地上生涯を終えたクリスチャン、キリスト者は、死後すぐに神のもと、キリストのもとへ行くということです。
ウェストミンスター小教理問答 問37を参照しましょう。
問 信者は、死の時、キリストからどんな祝福を受けますか。
答 信者の霊魂は、死の時、全くきよくされ、直ちに栄光にはいります。信者の体は、依然としてキリストに結びつけられたまま、復活まで墓の中で休みます。
人の命は地上生涯の死で終わりではありません。死後、その魂は肉体から離れてしかるべき場所へ行きます。
そしてキリストを信じている人の魂は、神のもとへ行くのです。
また、ステファノは死に際して「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と叫び、祈りました。
ステファノは主イエスに魂、霊をゆだねたのです。
キリストを信じていても、信じていなくても、すべての人が地上生涯の最後に死を迎えます。地上生涯の長さはそれぞれ違うし、死の迎え方も一人一人異なります。
けれど、万人に共通なことは、人はいつか地上で死を迎えるということです。
私たちもいつか、地上生涯の最後を迎えます。
では、どのような死の迎え方が幸福と言えるのでしょうか?
私は、死の時に自分の霊(魂)を安心してゆだねる先があるということ。「父よ、わたしの霊をお受けください」、あるいは「主イエスよ、わたしの魂をお受けください」と、安心してお任せできることが、幸いな死だと思うのです。
6月2日に81歳で天に召された一人の姉妹のお兄様(他教派の会員)が、姉妹とのやり取りを記した文章をお寄せくださいました。姉妹は若くして腎臓を患い、43年という長い間人工透析を続けてこられ、そのため晩年は様々な影響が体に出て常に痛みがあり、苦しんでいましたが、いつも前向きに過ごしておられました。そのお兄様の文章の一部を紹介いたします。
「別れの時」
妹が2020年1月に私に電話をかけてきた。「兄さんに話したいことがあって。以前、わたしは天に召されるときは船に乗って地平線の彼方に行くということを話したでしょう。でも今はむしろすぐにイエス様に抱かれるという思いになっているの。イエス様が手を差し伸べて召されたとたんにイエス様に抱かれるの。なにかいつも右側からイエス様の眼差しを感じるの。俊之兄さんのなんかの話でイメージしたのだけど、いつも苦しい時や辛い時にイエス様の眼差しを感じるの。だから御国に行くときには、イエス様にすぐに抱かれるの。子羊のように。それは子羊の写真を見ているからかしら。
実はね、医者にわたしはこれからどうなりますかと聞いたのね。そしたら、前例がないからわからないと言われたの。わたしのように古い人(長期にわたる人工透析のこと)がいないのね。それはね、大学病院は、最後まで見ないのよ。看取る前に転院させてしまうのよ。だからわたしね、大学病院に献体しようと思うの。最後に医学の役に立つといいなと思ったの。わたし自身は御国に行っているからね。夫も家族も反対しなかったのね。二年以内に遺骨が戻ってくるの。そしたら教会のお墓に入れてもらおうと思っているの。そのことを兄さんに言っておかなくてはと思ってね。でもね、今は大丈夫よ。元気だから。」
妹の別れの時の話は、驚くような話であった。妹は苦しい時、痛みのひどい時にイエス様の眼差しを受けて生きている。なんであのような苦しみに耐えて生きていられのか。その奥義を淡々と語った。そして、人間の最後の別れを見事に語ってくれた。・・・。
2021年6月2日朝、夫から電話があった。「5月31日の人工透析の後自宅で夕食を取ったが、その晩から激しい嘔吐に見舞われ入院しました。血圧が次第に下がり、6月2日朝、息を引き取りました。今日の午後2時には、大学病院から、遺体を引き取りに来ますがそれまでは病院の霊安室に安置してあります。」
私はすぐに家を出た。3時間半ほどかかり、病院に着いた。掃除のおばさんに案内されて、霊安室に行った。掃除のおばさんは、息を引き取る前にも妹と話したとのことであった。「この方はいつも穏やかでした。気分が悪い時には誰でも周囲に嫌な顔をするのに、本当に穏やかな方でした。昨夜もお話ししたのですよ」と語ってくれた。丁度家族は席を外していて妹が一人いた。その穏やかな顔をまじまじと見ながら、妹が私の亡き母にそっくりなのに驚いた。そのうち教会の牧師の司式でお別れの礼拝をした。私も祈った。すぐに大学病院の人が遺体を引き取りに来た。その車の行く手を遺族とともに最後に見届けた。
この姉妹も、ステファノと同じように、魂をゆだねる先を知っていました。ですから、とても平安なお顔をしていました。
生きている時に、神が、イエスが、どのようなお方なのかをよく知っているなら、そしてその方をわたしの主、私の神と信じているならば、人生最後の時にその方に魂をおゆだねできるのです。どのような死であっても、それができるのであれば幸いな人生、幸いな死だと思うのです。