2021年06月06日「手で造った神」
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手で造った神
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使徒言行録 7章39節~43節
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聖書の言葉
けれども、先祖たちはこの人に従おうとせず、彼を退け、エジプトをなつかしく思い、アロンに言いました。『わたしたちの先に立って導いてくれる神々を造ってください。エジプトの地から導き出してくれたあのモーセの身の上に、何が起こったのか分からないからです。』 彼らが若い雄牛の像を造ったのはそのころで、この偶像にいけにえを献げ、自分たちの手で造ったものをまつって楽しんでいました。そこで神は顔を背け、彼らが天の星を拝むままにしておかれました。それは預言者の書にこう書いてあるとおりです。『イスラエルの家よ、/お前たちは荒れ野にいた四十年の間、/わたしにいけにえと供え物を/献げたことがあったか。
お前たちは拝むために造った偶像、/モレクの御輿やお前たちの神ライファンの星を/担ぎ回ったのだ。だから、わたしはお前たちを/バビロンのかなたへ移住させる。』
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
使徒言行録 7章39節~43節
メッセージ
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<説教要約> 使徒言行録7章39-43節「手で造った神」
牧師は毎週、礼拝で説教を語るために様々に準備いたします。私も、主日の説教のために2~3日は使います。
説教箇所を日本語の聖書で何度も読み、ギリシャ語にあたり、必要な個所を調べ、聖書がそこで何を言おうとしているのかを読み取る努力をします。さらに、その個所を通して神が、この説教を聞いている、主には川越教会の聴衆に対して、何を語ろうとしておられるのかを読み取る努力をします。言いたいことは、30分くらいの説教であっても、準備には時間がかかる、ということが言いたいのです。
ですが、ステファノにはそんな時間はありませんでした。ですから、今まで彼が学んできたこと、そして信じていることをその場で組み立てて語っているのです。それでも、これは本当に立派な説教だと思います。そこで思い出すのが、ルカ福音書に記されている主イエスの言葉です。
①ルカ21章12-15
21:12 しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。
21:13 それはあなたがたにとって証しをする機会となる。
21:14 だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。
21:15 どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。
実に、ここで主イエスが言われていたことが、7章では現実になっているのです。
今日は、39節から43節までを扱います。
ステファノは、モーセに導かれエジプトを脱出したイスラエルの民が、モーセを退け、エジプトを懐かしみ、そしてついには偶像をつくってそれを礼拝し、楽しんだと指摘しました。
これは、出エジプト記32章に記されている出来事です。
②出エジプト32:1-6
32:1モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、民がアロンのもとに集まって来て、「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」と言うと、
32:2 アロンは彼らに言った。「あなたたちの妻、息子、娘らが着けている金の耳輪をはずし、わたしのところに持って来なさい。」
32:3 民は全員、着けていた金の耳輪をはずし、アロンのところに持って来た。
32:4 彼はそれを受け取ると、のみで型を作り、若い雄牛の鋳像を造った。すると彼らは、「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」と言った。
32:5 アロンはこれを見て、その前に祭壇を築き、「明日、主の祭りを行う」と宣言した。
32:6 彼らは次の朝早く起き、焼き尽くす献げ物をささげ、和解の献げ物を供えた。民は座って飲み食いし、立っては戯れた。
モーセが神の言葉、十戒を受けるため、シナイ山に上っている間の出来事です。
出エジプト記32章4節には 若い雄牛の鋳像を造り、「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」と言った。 とあります。イスラエルの民はアロンが造った雄牛の像に満足し、雄牛の像の前で、献げものを献げ神を礼拝をしたのです。
ただ、ここで一つ注意したいのは、彼らが雄牛を神として礼拝したということではなく、あくまでも雄牛は神の台座で、その上にヤハウエがおられると考えたのです。
それなら偶像礼拝ではないということでしょうか。しかし、神は彼らの行為を退けられました。
目で見えるもの、形あるものを頼ろうとする心は、偶像礼拝と同じこと。十戒の第二戒めは、「あなたはいかなる像も造ってはならない」とあります。
イスラエルの民は、自分たちの安心、自分たちの満足のために雄牛の像をつくり、それを祭って楽しんでいたのです。そしてそれは神の目に適いませんでした。
使徒言行録42節前半には
7:42aそこで神は顔を背け、彼らが天の星を拝むままにしておかれました。 とあります。
「神は顔を背けた」とは、神がイスラエルの民に背を向け、見放した、ということ。そして、彼らが天の星や偶像を拝むままにされたのです。
7:42bそれは預言者の書にこう書いてあるとおりです。 とあり、以下はステファノが一部変更した、旧約聖書アモス書5章25-27節からの引用です。
この引用は、言葉の問題でいろいろ議論のあるのですが、細かい説明は省きます。
アモスの預言は、あなたがたは荒野の40年間、心から神を礼拝してこなかった。
そして今も、偶像をつくり、空の星を礼拝している。だから、お前たちをダマスコのかなた、つまりアッシリアへ連れ去る、と神は言われる、というものでした。アモスの預言は、北イスラエルの人々に対する預言なのです。
ステファノは、ここでアモスの預言を引用しているのですが、しかし最後の言葉「ダマスコのかなた」という所を、「バビロン」と言い換えて、あなたがたの先祖も、偶像礼拝の結果、バビロンへ捕え移されることになったと、バビロン捕囚が偶像礼拝の裁きだと指摘しているのです。
ところで、今日の説教題は「手で造った神」です。
今日のところから、人はなぜ、神を造るのだろうかということを考えたいと思います。
人間には力の限界があります。コントロールできないことがいろいろあります。とはいっても、科学の進歩によって、昔よりいろんなことが分かってきて、コントロールできることも増えました。しかし、すべてをコントロールできるわけではありません。
そのいい例が、この度の新型コロナウィルスの世界的な流行、パンデミックです。
そして人は、自分でコントロールできないもの、力の及ばないもの、あるいは自分たちよりも長く存在しているもの、などを神として祭り、信仰の対象としてきたのです。
太陽や、星々。山岳信仰と言われるものもあります。大木をご神木などと言って拝むこともありますよね。
こんな風に、世界各地でも、日本でも、森羅万象が信仰の対象となりました。しかし、聖書によれば、森羅万象を含む天地万物は、神がつくられた被造物です。
ですから、それ自体に何かパワーがあるとは考えませんし、ましてや信仰の対象にはなりません。
また人間は、昔から自分たちの手で造り出したものを神として拝む、ということをしてきました。
造られた像そのものを神と信じたり、あるいは、そこに神の力が宿ると信じたり、いろんなケースがありますが、形あるものを対象にしたいという思いがあるのでしょう。
しかし、人の手で造られた神は、それを造った人間以上の力を持つはずもなく、ましてや人を守ったり、導いたりする力があるはずはありません。
聖書には、自己紹介してくださる真の神がおられ、私たちはその方のことを知っています。
真の神は、人類の歴史より古く、永遠からずっと存在している神。「わたしはここにいる」「あなたがたのところにいる」とご自身を紹介してくださる方です。
さらに、神はただ黙って人を見ているだけではなく、人を愛し、命を与えるために御子を世に遣わして、十字架につけてくださった、そういう方です。
私たちはいま、偶像を造らなくても、御子キリストを通して、まことの神に近づくことができるのです。
あるいは、御子キリストが、聖霊によって私と共にいてくださるのです。
ですから、私たちは、人が手で造ったものを神として頼る必要はありません。