音声ファイル 礼拝説教を録音した音声ファイルを公開しています。 再生できない方はこちらをクリック 聖書の言葉 イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。ルカ23:15日本聖書協会『聖書 新共同訳』ルカによる福音書 24章13節~27節 メッセージ <説教要約>2020年4月19日 川越教会説教 聖書 ルカによる福音書24章13-27節 (新約 P160)説教要約 「一緒に歩いてくださる方」 今日の箇所はイースターの午後の出来事です。イエスは十字架につけられ、墓に葬られた後、三日目に復活なさいました。朝早く、婦人の弟子たちが墓に行くと、そこにイエスのお体はありませんでした。婦人たちは、「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」という天使の言葉を信じ、他の弟子たちの所へ戻ってその様子を話しました。しかし話を聞いた弟子たちは、その話を信じませんでした。そして今、その中にいた弟子の二人が、エマオという村へ向かって歩いている。今日はその途中での話、エマオ途上での出来事です。二人は、エルサレムでの出来事、つまりイエスの裁判~十字架の死~葬り、そして墓から遺体が消えたことまでを知っており、それら一切の出来事について話しながら歩いていました。彼らは単なる噂話のように話していたのではなく、互いに論じ合っていたのです。と言いますのも、彼らはイエスの弟子としてイエスに従ってきた者たちです。彼らはイエスが「イスラエルを解放してくださると望みをかけていた」(24:21)のです。当時イスラエルはローマ帝国に支配されており、人々はローマからの解放を願っていました。そういう中で、イエスこそ、イスラエルの民をエジプトの奴隷状態から救出したモーセのような指導者、メシアであると信じて、イエスに従っていたのです。しかし、そのイエスがあっさり十字架で死んでしまったのですから、彼らは途方に暮れるしかありません。それに加えて、イエスのお体が墓から消えてしまうというショッキングな出来事まで起こったので、二人は失意の中、エルサレムを離れようとしていたのです。すると、彼らの後ろから一人の人が追いついて、一緒に歩き始めました。しかし、彼らはその方がイエスだとは気づきませんでした。聖書には「二人の目は遮られていた」(24:16)と記されています。自分たちの指導者であるイエスを失った悲しみと、将来への失望と不安で心が塞がれ、混乱していた二人に寄り添って、イエスは歩いておられたのです。そしてイエスの方から二人に言葉をかけました。「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と。19節から24節に彼らがイエスに話した言葉が記されていますが、彼らは、この数日の間にエルサレムで起こったこと。つまりイエスの十字架刑と、墓が空になっていたことを話しました。彼らの話はほとんどが状況説明ですが、その中で彼らがエルサレムで起こった出来事をどう理解しているかがわかるところもあります。彼らはイエスを「神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者」と理解していました。またイエスの十字架による処刑は、私たちの祭司長や議員たち、つまりユダヤ教指導者たちの手によるものと考えていたこともわかります。しかし、彼らが、婦人たちが告げた天使の言葉「イエスは生きておられる」を信じていたかどうかははっきり記されていません。二人の話を聞いた後、今度はイエスが二人にお話になりました。24:25「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じらない者たち24:26 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」と。イエスは、二人の話を聞いて明らかに失望しておられます。先週の説教でも触れましたが、生前イエスは、ご自身の十字架と復活を3回も予告しておられたのに、その言葉を思い出すことなく、イエスの復活を信じられずにいたからです。ですが25節、注意して原文を見ると、イエスは二人に信仰がない、信じていないとは言っていないのです。直訳すると「物分かりが悪く、イエスの復活を信じるには心が鈍く・・・」です。つまり、心が鈍く、理解力にかけている彼らですけれど、イエスは彼らを見捨ててはいません。イエスはこの後、二人が神の御業を理解し、からの墓の出来事を信仰をもって受け止められるように、聖書全体からご自身のことを説明なさいました。24:27 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。「聖書全体」とはもちろん旧約聖書のことです。律法と預言者、あるいは律法と預言者と詩編とも言いますが、それが当時の聖書全体です。旧約聖書のすべてが、キリストの救いを指し示している、といわれます。旧約聖書にはこまごまとしたいろんな内容が記されているので、キリストに直接結び着かないように思える箇所もあります。しかし、旧約聖書はイスラエルという選びの民の歴史を通して、そこに神の救いの歴史、救済史が記されています。旧約聖書は、神に背を向けたアダムとエバから始まり、神の救いの約束が与えられたアブラハムと彼に続く族長物語、エジプトの奴隷状態からイスラエルの民を救い出したモーセの話、ダビデ契約、繰り返し神に背く民に次々に預言者が与えられたのに、バビロン捕囚という裁きに至る歴史。そういう中でも選びの民イスラエルに預言者を送り、約束の救い主を受難のしもべ、神の知恵、栄光の人の子、契約の使者として待望させられたことが、旧約聖書に記されています。ですから、イエスは、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体がイエスについて記されていると教えるのです。二人は、イエスに説明され教えられることで、空の墓がイエスの復活を示していることに気付き、理解したはずです。けれど彼らの目はまだ遮られたままで、その方がイエスとは気付いていなかったのです。ところで、今日の箇所で、描かれているメシア像は「苦しみを受けて、栄光に入る」です。私たちのために十字架の苦しみを受け、そののち復活し天に昇られた方、イエスこそが、聖書全体が指し示しているメシア・キリストです。しかし、苦しみを受けて、栄光に入るのはメシアだけではありません。メシア・キリストを信じ、キリストに結ばれて生きているキリストの弟子たち、つまり私たちもそうなのです。ペトロの手紙一にこう記されています。しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。(一ペトロ5:10)「しばらくの間苦しむ」とあります。私たちの信仰の歩みにも、苦しみや試練があるというのです。ですが私たちには試練と共に与えられるイエスの助けもあります。それを今日の説教箇所から読み取ることができます。エマオ途上でイエスは、弟子たちに寄り添って歩まれました。彼らの悩みを聞いてくださいました。さらに聖書を示して神のみ旨をお示しになりました。イエスは、これと同じことを今も私たちにしてくださるのです。今、新型コロナウィルス感染拡大の中で、たくさんの神の民が嘆き、悲しみ、苦しんでいます。自宅にいることに疲れ、先が見えないことに苛立ち、一緒に神を礼拝できない寂しさの中にいます。感染のリスクの中で働き続けている者や、愛する家族を失った方、今まさに病と闘っている人もいます。でも、そういう中に置かれている私たち一人一人と共に、主イエスはいてくださいます。また、イエスは私たちの嘆きの言葉、苦しみの祈りを聞いて、受け止めてくださいます。自宅での時間がたくさんあるこんな時ですから、じっくり主イエスに向き合って心にある正直な気持ちを祈りの言葉にしましょう。イエスは、私たちの祈りの言葉を聞いてくださっています。失望せずに祈り続けましょう。さらに、イエスは、今も聖書を通して、礼拝説教のことばを通して、私たちに語っておられます。今、この災いの中で、神のご計画の意味、御心の全貌が分からず、私たちは混乱しています。けれど今、少し見えてきた神の意志、神の愛があります。共に集まれない中で世界中の教会が、いろんな工夫をして神を礼拝しています。福音を届ける為にいろんな手段を使って。それが教会外の人々の目にもとまり始めているようです。こういう一つ一つの小さな働きを主がお用いになることを、福音の進展、神の国の広がりとして受け止めたいのです。信仰の歩みは、試練や苦しみを通してさらに練り清められます。しかしそういう中でもイエスの助けがあります。エマオ途上で復活の主が二人の弟子と一緒に歩まれたように、主イエスは今週も、私たちと一緒に歩いてくださることを覚え、新しい週の歩みへと向かいましょう。 関連する説教を探す 2020年の日曜朝の礼拝 『ルカによる福音書』
<説教要約>
2020年4月19日 川越教会説教
聖書 ルカによる福音書24章13-27節 (新約 P160)
説教要約 「一緒に歩いてくださる方」
今日の箇所はイースターの午後の出来事です。
イエスは十字架につけられ、墓に葬られた後、三日目に復活なさいました。朝早く、婦人の弟子たちが墓に行くと、そこにイエスのお体はありませんでした。
婦人たちは、「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」という天使の言葉を信じ、他の弟子たちの所へ戻ってその様子を話しました。しかし話を聞いた弟子たちは、その話を信じませんでした。
そして今、その中にいた弟子の二人が、エマオという村へ向かって歩いている。今日はその途中での話、エマオ途上での出来事です。二人は、エルサレムでの出来事、つまりイエスの裁判~十字架の死~葬り、そして墓から遺体が消えたことまでを知っており、それら一切の出来事について話しながら歩いていました。彼らは単なる噂話のように話していたのではなく、互いに論じ合っていたのです。と言いますのも、彼らはイエスの弟子としてイエスに従ってきた者たちです。彼らはイエスが「イスラエルを解放してくださると望みをかけていた」(24:21)のです。当時イスラエルはローマ帝国に支配されており、人々はローマからの解放を願っていました。そういう中で、イエスこそ、イスラエルの民をエジプトの奴隷状態から救出したモーセのような指導者、メシアであると信じて、イエスに従っていたのです。
しかし、そのイエスがあっさり十字架で死んでしまったのですから、彼らは途方に暮れるしかありません。それに加えて、イエスのお体が墓から消えてしまうというショッキングな出来事まで起こったので、二人は失意の中、エルサレムを離れようとしていたのです。
すると、彼らの後ろから一人の人が追いついて、一緒に歩き始めました。しかし、彼らはその方がイエスだとは気づきませんでした。聖書には「二人の目は遮られていた」(24:16)と記されています。
自分たちの指導者であるイエスを失った悲しみと、将来への失望と不安で心が塞がれ、混乱していた二人に寄り添って、イエスは歩いておられたのです。
そしてイエスの方から二人に言葉をかけました。「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と。19節から24節に彼らがイエスに話した言葉が記されていますが、彼らは、この数日の間にエルサレムで起こったこと。つまりイエスの十字架刑と、墓が空になっていたことを話しました。
彼らの話はほとんどが状況説明ですが、その中で彼らがエルサレムで起こった出来事をどう理解しているかがわかるところもあります。
彼らはイエスを「神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者」と理解していました。
またイエスの十字架による処刑は、私たちの祭司長や議員たち、つまりユダヤ教指導者たちの手によるものと考えていたこともわかります。しかし、彼らが、婦人たちが告げた天使の言葉「イエスは生きておられる」を信じていたかどうかははっきり記されていません。
二人の話を聞いた後、今度はイエスが二人にお話になりました。
24:25「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じらない者たち
24:26 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」と。
イエスは、二人の話を聞いて明らかに失望しておられます。先週の説教でも触れましたが、生前イエスは、ご自身の十字架と復活を3回も予告しておられたのに、その言葉を思い出すことなく、イエスの復活を信じられずにいたからです。
ですが25節、注意して原文を見ると、イエスは二人に信仰がない、信じていないとは言っていないのです。直訳すると「物分かりが悪く、イエスの復活を信じるには心が鈍く・・・」です。つまり、心が鈍く、理解力にかけている彼らですけれど、イエスは彼らを見捨ててはいません。
イエスはこの後、二人が神の御業を理解し、からの墓の出来事を信仰をもって受け止められるように、聖書全体からご自身のことを説明なさいました。
24:27 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
「聖書全体」とはもちろん旧約聖書のことです。律法と預言者、あるいは律法と預言者と詩編とも言いますが、それが当時の聖書全体です。旧約聖書のすべてが、キリストの救いを指し示している、といわれます。旧約聖書にはこまごまとしたいろんな内容が記されているので、キリストに直接結び着かないように思える箇所もあります。しかし、旧約聖書はイスラエルという選びの民の歴史を通して、そこに神の救いの歴史、救済史が記されています。
旧約聖書は、神に背を向けたアダムとエバから始まり、神の救いの約束が与えられたアブラハムと彼に続く族長物語、エジプトの奴隷状態からイスラエルの民を救い出したモーセの話、ダビデ契約、繰り返し神に背く民に次々に預言者が与えられたのに、バビロン捕囚という裁きに至る歴史。
そういう中でも選びの民イスラエルに預言者を送り、約束の救い主を受難のしもべ、神の知恵、栄光の人の子、契約の使者として待望させられたことが、旧約聖書に記されています。
ですから、イエスは、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体がイエスについて記されていると教えるのです。
二人は、イエスに説明され教えられることで、空の墓がイエスの復活を示していることに気付き、理解したはずです。けれど彼らの目はまだ遮られたままで、その方がイエスとは気付いていなかったのです。
ところで、今日の箇所で、描かれているメシア像は「苦しみを受けて、栄光に入る」です。私たちのために十字架の苦しみを受け、そののち復活し天に昇られた方、イエスこそが、聖書全体が指し示しているメシア・キリストです。
しかし、苦しみを受けて、栄光に入るのはメシアだけではありません。メシア・キリストを信じ、キリストに結ばれて生きているキリストの弟子たち、つまり私たちもそうなのです。
ペトロの手紙一にこう記されています。
しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。(一ペトロ5:10)
「しばらくの間苦しむ」とあります。私たちの信仰の歩みにも、苦しみや試練があるというのです。
ですが私たちには試練と共に与えられるイエスの助けもあります。それを今日の説教箇所から読み取ることができます。
エマオ途上でイエスは、弟子たちに寄り添って歩まれました。彼らの悩みを聞いてくださいました。さらに聖書を示して神のみ旨をお示しになりました。イエスは、これと同じことを今も私たちにしてくださるのです。
今、新型コロナウィルス感染拡大の中で、たくさんの神の民が嘆き、悲しみ、苦しんでいます。自宅にいることに疲れ、先が見えないことに苛立ち、一緒に神を礼拝できない寂しさの中にいます。感染のリスクの中で働き続けている者や、愛する家族を失った方、今まさに病と闘っている人もいます。でも、そういう中に置かれている私たち一人一人と共に、主イエスはいてくださいます。
また、イエスは私たちの嘆きの言葉、苦しみの祈りを聞いて、受け止めてくださいます。自宅での時間がたくさんあるこんな時ですから、じっくり主イエスに向き合って心にある正直な気持ちを祈りの言葉にしましょう。イエスは、私たちの祈りの言葉を聞いてくださっています。失望せずに祈り続けましょう。
さらに、イエスは、今も聖書を通して、礼拝説教のことばを通して、私たちに語っておられます。
今、この災いの中で、神のご計画の意味、御心の全貌が分からず、私たちは混乱しています。けれど今、少し見えてきた神の意志、神の愛があります。
共に集まれない中で世界中の教会が、いろんな工夫をして神を礼拝しています。福音を届ける為にいろんな手段を使って。それが教会外の人々の目にもとまり始めているようです。こういう一つ一つの小さな働きを主がお用いになることを、福音の進展、神の国の広がりとして受け止めたいのです。
信仰の歩みは、試練や苦しみを通してさらに練り清められます。しかしそういう中でもイエスの助けがあります。エマオ途上で復活の主が二人の弟子と一緒に歩まれたように、主イエスは今週も、私たちと一緒に歩いてくださることを覚え、新しい週の歩みへと向かいましょう。