2021年05月09日「ヨセフ物語」

問い合わせ

日本キリスト改革派 川越教会のホームページへ戻る

ヨセフ物語

日付
説教
木村恭子 牧師
聖書
使徒言行録 7章9節~16節

音声ファイルのアイコン音声ファイル

礼拝説教を録音した音声ファイルを公開しています。

聖句のアイコン聖書の言葉

7:8 そして、神はアブラハムと割礼による契約を結ばれました。こうして、アブラハムはイサクをもうけて八日目に割礼を施し、イサクはヤコブを、ヤコブは十二人の族長をもうけて、それぞれ割礼を施したのです。
7:9 この族長たちはヨセフをねたんで、エジプトへ売ってしまいました。しかし、神はヨセフを離れず、
7:10 あらゆる苦難から助け出して、エジプト王ファラオのもとで恵みと知恵をお授けになりました。そしてファラオは、彼をエジプトと王の家全体とをつかさどる大臣に任命したのです。
7:11 ところが、エジプトとカナンの全土に飢饉が起こり、大きな苦難が襲い、わたしたちの先祖は食糧を手に入れることができなくなりました。
7:12 ヤコブはエジプトに穀物があると聞いて、まずわたしたちの先祖をそこへ行かせました。
7:13 二度目のとき、ヨセフは兄弟たちに自分の身の上を明かし、ファラオもヨセフの一族のことを知りました。
7:14 そこで、ヨセフは人を遣わして、父ヤコブと七十五人の親族一同を呼び寄せました。
7:15 ヤコブはエジプトに下って行き、やがて彼もわたしたちの先祖も死んで、
7:16 シケムに移され、かつてアブラハムがシケムでハモルの子らから、幾らかの金で買っておいた墓に葬られました。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
使徒言行録 7章9節~16節

原稿のアイコンメッセージ

<説教要約> 
使徒行録7章9-16節「ヨセフ物語」
先週から使徒言行録7章に記されている、ステファノの説教を見ています。
彼はこの場で、ユダヤ人たちがよく知っている旧約聖書の物語を語りました。
旧約聖書、創世記はアブラハムから、イサク、ヤコブを経て、エジプトへ下ったヨセフとヤコブ家族の話があり、その次の出エジプト記からはモーセの話になります。しかしステファノの説教では、アブラハムのことがまず語られ、イサク、ヤコブについては8節で簡単に触れているだけです。
そのあと9節から16節まで、つまり今日のところがヨセフ物語になっています。

7:8 そして、神はアブラハムと割礼による契約を結ばれました。こうして、アブラハムはイサクをもうけて八日目に割礼を施し、イサクはヤコブを、ヤコブは十二人の族長をもうけて、それぞれ割礼を施したのです。
神は、アブラハムに祝福の約束を与え、その印として割礼を定めました。割礼については創世記17章に記されています。
ステファノは、8節でイサクとヤコブについて短く触れます。
「ヤコブは十二人の族長をもうけて」とは、ヤコブの12人の息子たちのことです。
ヤコブの息子については、創世記35章22b~26に記されています。
創世記 35章22b~26
35:22bヤコブの息子は十二人であった。
35:23 レアの息子がヤコブの長男ルベン、それからシメオン、レビ、ユダ、イサカル、ゼブルン
35:24 ラケルの息子がヨセフとベニヤミン、
35:25 ラケルの召し使いビルハの息子がダンとナフタリ、
35:26 レアの召し使いジルパの息子がガドとアシェルである。
これらは、パダン・アラムで生まれたヤコブの息子たちである。 
ヤコブの息子は合わせて12人で、これが後のイスラエル12部族となります。

7:9この族長たちはヨセフをねたんで、エジプトへ売ってしまいました。しかし、神はヨセフを離れず、
7:10 あらゆる苦難から助け出して、エジプト王ファラオのもとで恵みと知恵をお授けになりました。そしてファラオは、彼をエジプトと王の家全体とをつかさどる大臣に任命したのです。
ヨセフは父ヤコブの11番目の子で、ヤコブはこのヨセフを特別にかわいがりました。ヤコブにだけ「すその長い晴れ着」を与えました。しかし、その結果ヨセフは兄たちから憎まれたのです。
さらにヨセフは、兄たちがヨセフに仕えるという夢をみたと兄たちに自慢したので、ヨセフはますます兄たちから憎まれるようになり、ついには奴隷として売られ、エジプトへ連れていかれてしまいました。
しかし9節の最後に、「神はヨセフを離れず」とあります。
7:10 あらゆる苦難から助け出して、エジプト王ファラオのもとで恵みと知恵をお授けになりました。そしてファラオは、彼をエジプトと王の家全体とをつかさどる大臣に任命したのです。
ここも、簡単にまとめられていますが、ヨセフはエジプトで苦労を重ね、牢獄に長いこと入れられたこともありました。それでも神はヨセフを守り通し、祝福なさり、最後はエジプトで、ファラオに信頼されるまでになったのです。
すべてのことの背後に神のご計画と守り、その結果、エジプトの王ファラオは、ヨセフを通してまことの神の力を知ることになりました。
しかし、この出来事の発端を考えるなら、父ヤコブのヨセフに対する偏った愛情、兄たちのねたみがあります。また、兄たちの気持ちも考えず、兄たちに夢の話を自慢したヨセフにも問題があったでしょう。
親は、神から授けられた子供、それぞれに目を止め、愛し、育てる必要と義務があります。子供は親を選べないからです。
兄たちは、幼い弟をねたむのではなく、幼い者として愛し育むべきです。
家族の中の嫉妬や妬みや、偏愛や、いろんなことの結果、ヨセフは大きな苦労を背負うことになりました。父は息子が死んだと悲しみ、兄たちも、弟を殺したのではないか?と、心の傷を負うことになったのです。

しかし、神にはご計画がありました。短期的な視点では、その後カナンやエジプトを襲う大飢饉からヤコブ一家が救われるための備えであったのです。
7:11 ところが、エジプトとカナンの全土に飢饉が起こり、大きな苦難が襲い、わたしたちの先祖は食糧を手に入れることができなくなりました。
7:12 ヤコブはエジプトに穀物があると聞いて、まずわたしたちの先祖をそこへ行かせました。
7:13 二度目のとき、ヨセフは兄弟たちに自分の身の上を明かし、ファラオもヨセフの一族のことを知りました。
7:14 そこで、ヨセフは人を遣わして、父ヤコブと七十五人の親族一同を呼び寄せました。
この部分も、実際に創世記の記述を読むと、ヨセフと兄たち、そして父ヤコブの心の葛藤が読み取れます。
兄たちはヨセフの復讐を恐れ、ヨセフは兄たちが本当に改心したかどうかを探り、父ヤコブはヨセフを失った後、ベニヤミンへの偏愛を増長させています。
しかし、とにかく一家はヨセフのおかげでエジプトで優遇され、食料を得、平和に暮らします。めでたしめでたしです。
父ヤコブはエジプトで死にました。父の死後、再びヨセフを恐れる兄たちに対してヨセフが語った言葉が印象的です。
創世記50:19-21
50:19 ヨセフは兄たちに言った。「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。
50:20 あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。
50:21 どうか恐れないでください。このわたしが、あなたたちとあなたたちの子供を養いましょう。」ヨセフはこのように、兄たちを慰め、優しく語りかけた。

このように、神は私たちの失敗やあやまち、罪、悪意をも善に変えて導いてくださいます。ヤコブの息子たちが互いの関係を修復できたのは、それぞれがお互いを受け入れ、存在を感謝し、神の前に正しく生きようとした結果でしょう。
家族であってもみな同じ考え、価値観、ではありませんから、難しいこともあります。しかし、神の前にお互いを受け入れることで、ある回復がなされるのではないでしょうか。

ヤコブもヨセフもエジプトの地でその生涯を閉じます。
16節には、ヤコブがシケムに葬られたとありますが、ヤコブは、かつてアブラハムが買い取ったマクペラの畑の洞窟に葬られました。その後ヨセフもエジプトで死に、後にイスラエル民族がエジプトを脱出するときに「モーセはヨセフの骨を携えていた」(出エジプト13:19)と記されています。
そして、17節から、ステファノの話はモーセ物語へと続きます。

今日の箇所から二つのことを覚えたいと思います。
一つは、家族の絆、関係を考え直してみましょう、ということです。ヤコブ物語もヨセフ物語も、イスラエルの族長物語ですが、どちらも家族ということを考えるいい素材です。
人間関係は、近ければ近いほど、難しい問題があります。
この機会にもう一度、自分の家族関係について、お互いの心の中のことなど、見直してみたらいいかもしれません。
また、同時に「教会は神の家族」という言い方をします。キリストに結ばれた兄弟姉妹として、共に天国目指して歩みを進める神の家族です。
しかし、この神の家族の間にも、時に妬みや憎しみが入り込んでしまうことがあります。私たちも自分の心の中をよく点検したいものです。

しかし、これがステファノの説教のテーマではありません。
ステファノは、ヨセフ物語を、キリストの十字架のモデルとして語っているのです。
 ヨセフ物語は、先ほども言いましたけれど、父の偏愛や兄弟たちのねたみ、また兄弟たちの心に無神経なヨセフ、という様々な罪のゆえに起こった事件です。しかし、そういう人間の罪や悪を超えて、神の計画は進み、結果として、彼ら一族がエジプトで命を救われたという結末です。
 ステファノはこの話を、イエスの十字架のモデル、原形として語っているのです。イエスの十字架の時には、ユダヤ人指導者たちのイエスへのねたみ、イエスを喜んで迎え入れた民衆たちの心変わり。そして直接にはユダの裏切りがイエスを十字架へと向かわせました。このように、人々の罪や悪意によって、イエスは十字架にかけられたのですが、しかしそのことによって十字架の救いが完成したのです。
神の摂理的な導きがあって、ヨセフは兄弟たちより一足先にエジプトに下りましたが、やがて兄弟たちを大飢饉から救うことになりました。
イエスの十字架もそれと同じで、神の永遠からの救いのご計画は、愚かな人間たちの悪意や罪を超越し、イエスを信じるすべての者に与えられるのだと、ステファノは言いたいのです。

 すべてのことと背後には、神のご計画があります。
今世界が、そして私たちが立ち向かっているコロナパンデミックも同じように、その背後には神のご計画があり、神の導きがあります。今はその意味が分からなくても、コロナの悲惨さにだけ目を向けるのでなく、背後にある神の愛、神の導きを夢見ていたいと思います。

関連する説教を探す関連する説教を探す