2021年04月18日「恵みと力に満ちた人」

問い合わせ

日本キリスト改革派 川越教会のホームページへ戻る

恵みと力に満ちた人

日付
説教
木村恭子 牧師
聖書
使徒言行録 6章8節~15節

音声ファイルのアイコン音声ファイル

礼拝説教を録音した音声ファイルを公開しています。

聖句のアイコン聖書の言葉

さて、ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた。ところが、キレネとアレクサンドリアの出身者で、いわゆる「解放された奴隷の会堂」に属する人々、またキリキア州とアジア州出身の人々などのある者たちが立ち上がり、ステファノと議論した。しかし、彼が知恵と“霊”とによって語るので、歯が立たなかった。そこで、彼らは人々を唆して、「わたしたちは、あの男がモーセと神を冒涜する言葉を吐くのを聞いた」と言わせた。また、民衆、長老たち、律法学者たちを扇動して、ステファノを襲って捕らえ、最高法院に引いて行った。そして、偽証人を立てて、次のように訴えさせた。「この男は、この聖なる場所と律法をけなして、一向にやめようとしません。わたしたちは、彼がこう言っているのを聞いています。『あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう。』」最高法院の席に着いていた者は皆、ステファノに注目したが、その顔はさながら天使の顔のように見えた。

日本聖書協会『聖書 新共同訳』
使徒言行録 6章8節~15節

原稿のアイコンメッセージ

<説教要約> 使徒言行録6章8-15節「恵みと力に満ちた人」
先週から使徒言行録6章に入りましたが、今朝は8節からです。ここから7章の終わりまでは、前回新しい役員の一人に選ばれた「ステファノ」という人の話です。

先ず、ステファノについて見ていきましょう。
6章5節には
6:5 一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで・・・。とあり、7人の中でステファノだけが「信仰と聖霊に満ちている人ステファノ」と紹介されていたのです。
そして、今日の箇所8節では、
6:8 さて、ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた。
とあります。
もともとステファノは、食事の配慮をする、いわば執事的な役員として選ばれたのですが、実際には「不思議な業としるしを民衆の間で行う」という働きをしたことが記されています。当然ながら「不思議な業としるし」は、キリストを証しする働きです。
ルカはステファノを「信仰と聖霊に満ちている人」であり、「恵みと力に満ちている人」と紹介しています。
これは「キリストを信じる信仰、キリストの霊である聖霊、キリストの恵み、キリストの力」に満ちているということです。
さらに、10節では、
6:10 しかし、彼が知恵と“霊”とによって語るので、歯が立たなかった。とありますから、彼がキリストの知恵とキリストの霊によって語る働きまで行っていたことが分かります。
また当然ながら、ステファノはギリシャ語を話すユダヤ人(ヘレニスト)ですから、ギリシャ語を話すユダヤ人に対しての福音宣教という働きをしたわけです。ここまでがステファノという人の紹介です。
しかし、このことのゆえに事件が起こりました。

6:9 ところが、キレネとアレクサンドリアの出身者で、いわゆる「解放された奴隷の会堂」に属する人々、またキリキア州とアジア州出身の人々などのある者たちが立ち上がり、ステファノと議論した。
ステファノがギリシャ語を話す人々に語った内容が引き金となって、大きな事件へと発展していったのです。
ここで、「解放された奴隷」とあります。以前ローマの軍隊がユダヤに攻め込んで来たときに、ユダヤ人を奴隷としてローマへ連れ帰った、という歴史があります。
その後彼らの多くは奴隷から解放され、ユダヤに戻っていました。このように外国から戻ってきた人々、ギリシャ語を話すユダヤ人たちが、一つあるいは複数の群れを形成しユダヤ教徒として生活していたのです。
彼らは、外国で奴隷として生活している間も、ユダヤ人として、ユダヤ教徒として、信仰を守り通す努力を続けた人々ですから、国内のユダヤ教徒以上に、律法や神殿への思いが強かったはずです。
そんな彼らが、ステファノがギリシャ語で語るキリストの福音、さらには不思議な業としるしに接した時、反発を感じ、議論となったのです。
6:10 しかし、彼が知恵と“霊”とによって語るので、歯が立たなかった。とあります。

彼らは、自分たちが外国で苦労しながらも、必死に守り通してきたユダヤ教の教えをステファノが否定しているように感じて、腹立たしかったのかもしれません。しかし、ステファノは、神の知恵と神の霊に教えられて語ったので、彼らはまったく太刀打ちできませんでした。それで、彼らは姑息な手段そして過激な行動に出ました。
6:11 そこで、彼らは人々を唆(そそのか)して、「わたしたちは、あの男がモーセと神を冒涜する言葉を吐くのを聞いた」と言わせ、
さらに
6:12 また、民衆、長老たち、律法学者たちを扇動して、ステファノを襲って捕らえ、最高法院に引いて行った。と過激な行動に出ました。ここまでくると「神への熱心、律法への熱心」というには限度を超えています。

6:13 そして、偽証人を立てて、次のように訴えさせた。「この男は、この聖なる場所と律法をけなして、一向にやめようとしません。
6:14 わたしたちは、彼がこう言っているのを聞いています。『あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう。』」
彼らは最高法院で、偽証人を立てて訴えました。まるで、イエスの裁判の時のようです。
偽証の具体的な内容は14節になります。
彼らは、ステファノが「イエスが神殿を破壊しモーセが伝えた慣習を変える」といったことを問題にしています。

では、エルサレム神殿について、イエスはどのように語っておられたでしょうか。
二か所ほど、聖書を開きます。
①ルカ21:5-6
21:5 ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。
21:6 「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」
これは、イエスが神殿崩壊を預言した言葉として読まれています。この後、エルサレム神殿はローマ軍によって破壊され、この預言の通りになりました。ですが、ここでイエスは積極的に神殿を破壊すると言っているわけではありません。
②ヨハネ2:19-21
2:19 イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」
2:20 それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。
2:21 イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。
ここでもイエスは、自分が神殿を破壊すると言っているのではありません。

また「モーセの伝えた慣習を変える」ということについては、さらに注意が必要です。イエスが「モーセ律法を変える」と言われたというのではなく「モーセの伝えた慣習を変える」と言われたということです。
ここで、「モーセの伝えた慣習」とは、ユダヤ教律法学者たちがモーセ律法に後から付け加えた解釈までを含んでいます。イエスは、律法の真意がゆがめられた解釈や、中身のない表面的な解釈を指摘なさいました。
ですから、『ナザレの人イエスは、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう。』は、実際間違っていないのです。
しかし今ここでステファノを訴えた人々にとっては、エルサレム神殿とモーセが伝えた慣習は死守すべきものでありました。それで、こんな事件が起こったのです。

そして、今日の聖書テキストの最後は15節。
6:15 最高法院の席に着いていた者は皆、ステファノに注目したが、その顔はさながら天使の顔のように見えた。
そこにいた人々の目に、ステファノの顔が天使のように見えたというのです。実際、天使の顔など人々は知らないはずですから、まあいうならば神々しく見えた、ということでしょうか。
彼が語っていること、これから語ろうとしていることは、神々しい。確かに神が彼と共にいて彼に語らせている、そういうことが分かるようだった、ということだと思います。

ところで、キリスト教は啓示の宗教と言われます。神がかつて啓示された約束が時代を経て少しずつ実現していくのです。「救いの進展」といういい方もあります。そして、それを記しているのが神の言葉である聖書です。
かつて神がアブラハムになさった約束が、族長時代を経て、モーセを経て、カナン定住からダビデ王の時代、そしてバビロン捕囚を経て、またイザヤやエレミヤなどの預言者の時代を経て、ついにはメシアであるキリストの誕生、十字架、復活、昇天を経て少しずつ実現していく、それがキリスト教です。
 旧約時代、神殿は神が臨在される場所として、尊とばれる場所でした。しかし、キリストの十字架と復活、昇天によって、神殿は必要がなくなりました。今私たちは、霊とまこととによって、どこででも神を礼拝することができるし、聖霊なる神はいつも共にいてくださいます。神の約束が実現していく、進んで行くことを理解し信じた人々は、イエス・キリストをメシア、救い主と信じてキリスト教徒になりました。一方で古い約束に留まり続けている人々は、今もメシアを待ち続けています。神の約束は、常に前に向かって進んでいるのです。

もう一つ、今日の箇所から特に覚えたいことは、「変えてはいけないことと、変えるべきこと」の見極めが大切だということです。
教会の中でも習慣化していることが結構あります。習慣になっていることを変えるのは難しいことですが、変えるべきこと、変えた方がいいこともあります。
特に聖書の解釈については「今までそう教えられてきたから、それが正しい」とは限りません。
今までの聖書解釈が間違っていた、ということもあるのですから。ですから私たちは、日々素直な心でみ言葉を読み、その意味を熟慮し、背後にある神のみ旨、神の意志を読み取る努力が大切です。
私たちの信仰の歩みは、そこに留まるのではなく、むしろ日々新しくされて、キリストの形、神に倣う者へと変えられて行くのです。最後に二か所、み言葉を読みます。
③コロサイ3:10 造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。
④二コリント4:16 だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。

関連する説教を探す関連する説教を探す