2021年03月14日「信仰がなくならないように祈った」
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信仰がなくならないように祈った
- 日付
- 説教
- 木村恭子 牧師
- 聖書
ルカによる福音書 22章31節~34節
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聖書の言葉
「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ルカによる福音書 22章31節~34節
メッセージ
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<説教要約>
ルカ22:31 「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。」とあり、ここにサタンが登場しています。
ユダ以外の使徒たちは皆、自分はイエスを裏切ることはないと考えています。
しかし、イエスはシモン・ペトロを名指しして言われました。
「サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。」と。
サタンと言えば、少し前の22章3節にも登場しています。「十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。」と。
サタンがユダの心に入ったので、ユダがイエスを裏切ることになったと書かれているのですが。
サタンは、人間が神の恵みの中で生きるのを妨げようとする力。そういう働きをする霊的な存在です。そして、イエスの十字架が近づいてきたこの時、サタンの活動は活発になっているのです。
ここでサタンは、弟子たちをふるいにかけて、彼らがイエスの危機的な状況下でも、本当にイエスを信じ、従う者かどうか、彼らの信仰心を試みることを願い出たのです。こうして弟子たちはイエスの十字架の時に、サタンによって信仰が試されることになったのです。そして神は、弟子たちの信仰が試されるという、信仰の試練をお赦しになったのです。
イエスを信じ、神に従って歩んでいる私たちも、弟子たちと同じように、信仰が試されることがあります。ふるいにかけられることがある。そういうことが起こり得る。ということでもあります。
しかし、
22:32わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
信仰が試され、振るわれることがある。しかし、同時に「信仰が無くならないように、振るい落されないようにと支えて下さる方がいる。それが、イエスの執り成しです。
この箇所注意して読みますと、31節で、サタンは「あなたがた」を、つまり弟子たちみんなをふるいにかけることを願い出た、とあります。
実際、イエスの逮捕から十字架までの間、弟子たち全員が試みを受け、信仰がふるいにかけられました。十字架とその後しばらくの間、大きな恐れが彼らの信仰を押さえつけ、支配しました。そして使徒たちは、イエスが逮捕されるとその場から逃げ去ったのです。
ですがイエスご自身は、使徒たちがそうなることをご存知で、32節の言葉を、ペトロに向かって語っています。
「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。」と。
ここでイエスの言葉は、「あなたがた」ではなく「あなた」です。ここでのイエスの執り成しは、十羽ひとからげではなく、ペトロという一人の信仰者に向けられています。
そしてイエスの執成しの言葉は、十字架以降のペトロへの働き、「立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」という言葉と深く結びついています。
しかし、ペトロはこの時、自信満々。自分の信仰を疑わず「従う覚悟ができている」と主張します。
イエスと一緒に、牢に入る覚悟も、死ぬ覚悟があると主張するのです。この時、ペトロは自分の信仰に自信があって、本当にそう思っていたのだと思います。
しかし、そこで語られたイエスのことばは、
22:34「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」
というものでした。そしてこの言葉は、数時間後には現実となります。
今日の所では、「信仰」についていくつか大切なことが教えられています。
(1) 信仰には試練がある
一つ目は、信仰には試練があるということです。
私たちの人生のいろんなことの中で、サタンが私たちの信仰をふるいにかける、ということが起こることがあるのです。そして私たちはそれに気付かないことが多いのです。ですから、信仰者の歩みには祈りと、み言葉と、礼典が大切なのです。主日の礼拝は大切なのです。それが私たちの心をもう一度神へと引き戻してくれます。
また同時に、信仰者の試練は必ず成長につながります。ペトロのその後を考えてもよくわかります。
私たちも信仰の歩みの中で、大きな試練、失敗、罪に陥ることもあります。しかし、イエスは私たち一人一人のために、祈り、執り成しておられます。そして、その試練を乗り越えた先には大きな祝福があることも覚えたいと思います。
(2)信仰は恵み
もう一つのことは、私たち人間の信仰、覚悟は、あまりあてにならないということです。
「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」というペトロの言葉。これは決して強がりではなく、その時のペトロの正直な気持ちだったと思います。本当にそうしたいし、そうできると思っていたのでしょう。
けれど、イエスが十字架におかかりになった時、この世の力への恐れがペトロの心を支配しました。そしてイエスを「知らない」と言ってしまったのです。3回も。
私たちも、今は、「神様から絶対にはなれない覚悟がある!!」と思っていても、自分の心の思いを過信し過ぎてはいけません。私たちは、自分の力だけで信仰を守り切ることができない、そういう弱さを持っていることを覚えたいのです。一か所聖書を開きます。
エフェソ 2:8 「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。」
信仰の歩みは、自分の信仰心の強さに寄り頼むことではありません。
自分の側の強さ、確かさに寄り頼むのではなく、キリストの十字架の真実とキリストの執成し、そして神の愛の確かさに寄り頼むことです。私の信仰を最後まで守ってくださる神の確かさに信頼をおくべきです。
(3)信仰を励まし合う
また、イエスはペトロに「だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と言われました。信仰の歩みは、神の助け、イエスの執成しと共に、兄弟姉妹の支えや励ましも用いられます。たった一人で信仰をもって歩み通すことは難しいのです。
サタンの試みにあった時、神から心が離れそうになった時、あるいは離れてしまった時に、主にある隣人の支え、執成しが用いられるのです。私たちには信仰の友、主にある兄弟姉妹の祈りと支えが必要です。
互いに励まし、支え合うために、与えられているのが神の家族であり、地上の教会の交わりです。
ですから、私たちは教会の交わりから離れることなく、共に天国までの歩みを歩んでいきたいのです。
(4)イエスの愛が注がれている
ですが、受難節の今日、特に覚えたいのは、私たち信仰者一人一人に注がれている神の愛、イエスの愛です。
地上に残る弟子たちを気遣い、弟子たちを愛し抜かれたからこそ、十字架の道を進まれたイエスを覚えたいと思います。最後にヨハネ福音書13章1節を読んで祈ります。
「過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」
この同じイエスが、私たちのために十字架の道を歩まれ、そして今、イエスは神の右の座におられて私たちのために神に執り成してくださっている。
私たちは、このイエスに信頼し、より頼むことで、救いの道を歩み通すことができるのだということをしっかりと覚えたいのです。