2021年03月07日「神に捨てられた方」
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神に捨てられた方
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- 木村恭子 牧師
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詩編 22章1節~22節
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聖書の言葉
22:1 【指揮者によって。「暁の雌鹿」に合わせて。賛歌。ダビデの詩。】
22:2 わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。
22:3 わたしの神よ/昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない。
22:4 だがあなたは、聖所にいまし/イスラエルの賛美を受ける方。
22:5 わたしたちの先祖はあなたに依り頼み/依り頼んで、救われて来た。
22:6 助けを求めてあなたに叫び、救い出され/あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。
22:7 わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。
22:8 わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い/唇を突き出し、頭を振る。
22:9 「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら/助けてくださるだろう。」
22:10 わたしを母の胎から取り出し/その乳房にゆだねてくださったのはあなたです。
22:11 母がわたしをみごもったときから/わたしはあなたにすがってきました。母の胎にあるときから、あなたはわたしの神。
22:12 わたしを遠く離れないでください/苦難が近づき、助けてくれる者はいないのです。
22:13 雄牛が群がってわたしを囲み/バシャンの猛牛がわたしに迫る。
22:14 餌食を前にした獅子のようにうなり/牙をむいてわたしに襲いかかる者がいる。
22:15 わたしは水となって注ぎ出され/骨はことごとくはずれ/心は胸の中で蝋のように溶ける。
22:16 口は渇いて素焼きのかけらとなり/舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。
22:17 犬どもがわたしを取り囲み/さいなむ者が群がってわたしを囲み/獅子のようにわたしの手足を砕く。
22:18 骨が数えられる程になったわたしのからだを/彼らはさらしものにして眺め
22:19 わたしの着物を分け/衣を取ろうとしてくじを引く。
22:20 主よ、あなただけは/わたしを遠く離れないでください。わたしの力の神よ/今すぐにわたしを助けてください。
22:21 わたしの魂を剣から救い出し/わたしの身を犬どもから救い出してください。
22:22 獅子の口、雄牛の角からわたしを救い/わたしに答えてください。
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
詩編 22章1節~22節
メッセージ
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<説教要約> 受難節説教 詩編22編1-22 「神に捨てられた方」
私たちは今、イエス・キリストが十字架に向かわれた歩みを覚えながら、受難節を過ごしています。
今朝は、メシア詩編として有名な詩編22編1-22節から、キリストの受難、十字架を覚えたいと願っています。
まずは、詩編22編そのものについて考えましょう。「ダビデの詩」とあります。
内容は、前半22節までは苦しみの中で神の助けを求める苦悩の詩です。ですから、ダビデが苦しみの中で神に助けを求める詩として読むことができます。
詩編22編は神への呼びかけ、叫びから始まっています。
22:2わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻(うめ)きも言葉も聞いてくださらないのか。
22:3 わたしの神よ/昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない。
ダビデはその人生において、ほぼ一貫して神に従ってきた人です。少年時代も、王様になってからも。
彼は少年の頃から神を信じ、神の力を信じ、依り頼んで成長しました。ペリシテとイスラエルとの戦いで巨人ゴリアテを倒した話は有名です。イスラエルの兵は巨人ゴリアテを恐れて手出しできませんでた。ところが、父親のお使いで偶然その場に行った少年ダビデは、怯える兵たちをしり目に、杖と石投げを武器にして巨人ゴリアテを倒しました。この時彼は「この戦いは主のものだ。」と信じて巨人に立ち向かったのです。
その後も、サウル王に長いこと命を狙われ、追い回されましたが、ダビデはチャンスがあっても自分の手でサウルを倒すことはしませんでした。主が選び、立てられたものに手をかけることを恐れたのです。
そのように、神を信頼して従ってきたダビデですが、この詩編では神に向かって叫んでいます。
命の危機、困難な状況の中にいるのに、神は何もしてくれないので、神に見捨てられたように感じているのです。しかし、それでもなお彼は「わたしの神よ」と叫んでいます。
苦しみの中で、神からの助けがない中で、それでもなお神を「わたしの神」と呼んでいる。この時のダビデの心境は、いったいどんなだったのでしょうか。
しかし、それでも神は黙し続けています。
4-6節では、辛い状況の中で、ダビデは過去の出来事を思い返しています。
今彼は苦しみの中で、神の助けもなく、神に見捨てられたように感じています。けれども、振り返ってみれば、自分の先祖たちは、神に依り頼むことで、困難や苦しみから救われてきたのです。
先祖たちが神に依り頼むとき、神は彼らを見捨てなかった。彼はそのことを思い返しています。
過去を振り返って神の助け、恵みを思い返すことは、私たちの信仰の歩みにも大切です。
私たちは苦しい時、辛い時、ともすれば過去のことを忘れてしまうのですが、振り返ってみると、今までの歩みの中に、いつも神の支え、助けがあったことを思い出すはずです。
神は今まで私の人生を守ってくださったのだから、今度もそのはず!!と思えるものです。
しかし7-19節でも苦しみはさらに続きます。
敵の前で、自分自身が力なく、みじめなものに感じられます。自分が、足で踏みつぶされるような小さな虫けらのように感じられ、屑、恥とさえ思える。周囲にいる敵は、彼をあざ笑い、見下して頭を振る。
それに追い打ちをかけるように、神に愛されているというダビデの信仰的な確信を揺さぶるような言葉を語ります。
愛されているなら神は助けてくれるはず。助けてもらえないのは、お前が愛されていないからだ、と。
しかし、彼は、その言葉に惑わされることなく、なお神に救いを求め続けます。
あなたが私をつくり、わたしに生を与えられました。私は生まれた時からあなたに依り頼んできました。
だから、
22:12 わたしを遠く離れないでください/苦難が近づき、助けてくれる者はいないのです。
13-19節 しかしなお、苦しみは続いています。
雄牛のような敵に取り囲まれて、私の体の骨は外れ、心は蠟のように溶け、口はからからに乾いて舌が上あごに張り付いている。ほとんど死ぬ寸前のような状態。いや、実際にはそれ以上で、塵と死の中に打ち捨てられているような状況なのです。
17節では、お腹を空かせた野犬が自分を餌にしようと取り囲んでいるような状況にさえ感じられるといいます。やせ衰えて骨が透けて見えるほどになった体がさらしものとなり、敵は着物をくじを引いて分けている。
そういう極限の状況の中にあって、なお、彼は神に助けを求めています。
22:20主よ、あなただけは/わたしを遠く離れないでください。わたしの力の神よ/今すぐにわたしを助けてください。
22:21 わたしの魂を剣(つるぎ)から救い出し/わたしの身を犬どもから救い出してください。
22:22 獅子の口、雄牛の角からわたしを救い/わたしに答えてください。
本当に苦しい詩です。
この後、詩人はどうなったのでしょうか? このまま神に見離され、捨ておかれたのでしょうか?
実は詩編22編の後半、23節以下は神への賛美です。神が敵の前からダビデを救い出してくださったことへの感謝が記されています。
ここまで、詩編22編の22節までを見てきました。
実は、マタイ福音書の記述によれば、イエスは、十字架上でこの詩編22編2節の言葉を叫ばれたのです。
27:45 さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
27:46 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
イエスは朝の9時に十字架につけられましたが、正午になると突然全地が暗くなり、3時までの間闇が続いたと記されています。暗闇は神の裁き、神の怒りの象徴です。そしてイエスは叫びました。「エリ,エリ,レマ,サバクタニ」。マタイ福音書がはっきりと記している十字架上のイエスの言葉は、この一言だけです。そしてこれが詩22篇の冒頭の言葉なのです。
イエスはどんな思いでこの詩編の言葉を叫んだのでしょうか?
思い返せばイエスは、逮捕直前にイエスはゲッセマネで苦しみの祈りを捧げています。
その場面も思い出してみましょう。
マタイ26:37-44を抜粋しながら読みます。
イエスは、ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。
そして言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。・・・。」
少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」
ところが、この苦しみの祈りの時、弟子たちは眠ってしまいました。
「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。
イエスは苦しみを理解できない弟子たちの姿を見て、さらに辛くなられたことでしょう。しかし、彼らを慰めるように語りました。
「心は燃えても、肉体は弱い。」
そしてまた、彼らから離れて祈りました。
「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」
しかし、またも弟子たちは眠ってしまったのです。
それからイエスは、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。
とマタイは記します。
ルカ福音書には③ルカ22:44 イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。とあります。
イエスは、この祈りの後に起こることを知っておられたのです。
十字架の死、そしてそれは、神の怒りを受けること。神に見捨てられ裁きを受けることだと。
地上にあっても、父なる神から「わたしの愛する子」と呼ばれ、父との深い交わりの中にいたイエスです。そのイエスが、父から見捨てられ裁かれようとしているのです。どれほどの恐怖だったことでしょう。
イエスは朝の9時に十字架につけられましたが、正午から3時までの間全地が暗くなりました。
暗闇は神の裁き、神の怒りの象徴です。そしてイエスは叫びました。「エリ,エリ,レマ,サバクタニ」。
ですから、この時イエスは本当に神に見捨てられたのです。神に見捨てられ、呪われたのもとなったのです。
イザヤ53:6 わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。 というイザヤの言葉の通り、イエスは十字架上で神の呪いを受け、見捨てられ、裁かれたのです。神が私たちの罪を彼に追わせられたからです。
十字架上でのイエスの言葉は、詩編22編のダビデの状況とは違います。
ダビデは大きな苦しみの中にいましたが、神に捨てられたわけではありません。神の守りがあったのです。しかし、イエスは本当に、神から見捨てられ、見放され、裁かれたのです。
この受難節に、私たちは「神に見捨てられ、見放される」ということの厳しさを、思いめぐらせたいと思います。今週は特に、イエスの十字架上での苦しみ、神に捨てられることの恐怖を深く瞑想し、私たちの罪の深さを考えたいと思います。
しかし、同時に、その厳しい現実をイエスが、私に代わって引き受けてくださったこと。
それゆえに、私が神の呪い、神の裁きから解放されていることも覚えたいのです。
キリストの十字架を通して示される神の愛を、感謝して受け止めたいのです。