2021年02月14日「誰に従うのか」
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使徒言行録 5章27節~32節
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聖書の言葉
彼らが使徒たちを引いて来て最高法院の中に立たせると、大祭司が尋問した。「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている。」ペトロとほかの使徒たちは答えた。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
使徒言行録 5章27節~32節
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<説教要約>
使徒言行録5章27-32節 「誰に従うのか」
今日の話しは、使徒たちが最高法院に連行され、尋問を受ける場面からです。
最高法院にはすでに議員たちが待ち構えていました。
最高法院の議員は、福音書では「祭司長・律法学者・長老」と記されているユダヤ教の指導者たちで、政治と宗教的な権力を持っている人々でした。
使徒たちはこの人たちの真ん中に立たされ、大祭司から尋問されたのです。
5:28 「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている。」
大祭司は「あの名」という言葉を使っています。「イエスの名」とは言いません。ですが当然イエスのことです。「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。」とは、以前、ペトロとヨハネが足の不自由な男を癒したときに言われた脅しの言葉です。
その時には、理由も告げられずただ禁じられただけでした。しかし今回は、理由も加えています。
それが28節後半です。
「お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている。」
彼らが問題視しているのは、イエスの名による福音、教えをエルサレム中に広めていること、つまり彼らの福音宣教のことではなく、それよりも、「あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている。」という、このことを問題視しているのです。
「イエスの血の責任」については、イエスの十字架裁判の時のことを思い出してください。
イエスがローマの総督ポンテオ・ピラトの前で裁かれた時、ピラトはイエスには死刑にあたる罪がないと判断しました。この要求はユダヤ人指導者たちのねたみが原因であることが分かっていたからです。
ですから、何とかイエスを助けてその場を収めようとしました。けれど、それができなかったのです。
その時ピラトは「この人の血について、わたしには責任がない」と言って、イエスの十字架判決の責任が自分にないとアッピールしたのです。
一方で民もとダヤ教指導者たちは、「その血の責任は、我々と子孫にある。」と言ったのです。ですから、使徒たちが彼らにイエスの血の責任、つまり十字架の責任を負わせたとしても、それは了解済みのはずでした。
ですが、そのイエスが本当に復活したのであれば、それは神の御業でありますから、実際神にその責任を問われては大変です。つまり彼らの心配の種は、福音宣教そのものではなく、「イエスの血の責任問題」だったのです。
ですが、「イエスの血の責任」は、いったい誰にあるのでしょうか? 実はこれは大切な問いです!!
ペトロと使徒たちの答えが29節以下です。
まず、尋問の前半に対する答え、「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。」に対しては、はっきりと「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。」と答えています。
彼らは昨夜、天使の口を通して
5:20「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」という言葉を聞いたばかりですから、自身をもって応えることができました。自分たちは人間の言葉ではなく、神の言葉に従うのだと。
一方で、後半の尋問に対しては、つまりイエスの血の責任ということについての答えは、30-31節です。
30-31節は、キリスト教の教えの要素、エッセンスがつまっているので、特に注意して読む必要があります。
先ず30節。
5:30わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。
まず言葉の説明をします。
「木につけて殺した」という所の翻訳の問題ですが、口語訳聖書、新改訳聖書、教会共同訳聖書、フランシスコ会訳聖書など、新共同訳聖書以外は、この箇所「木にかけて殺した」と訳しています。
②申命記21:23b「木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである。」にこのように記されており、
この箇所を引用して、ガラテヤ書3:13でパウロは
③ガラテヤ 3:13 キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。と記しています。
つまり、木にかけられて死んだキリストは、神の呪いを受けて死んだということなのです。
イエス・キリストは、神の御子であり「あなたはわたしの愛する子、私の心に敵う者」(マルコ1:11)であるにもかかわらず、神の呪いを受けて死なれた。これがキリストの十字架です。
しかし神はそのキリストを復活させられたのです。
これは、どういうことなのでしょうか。31節。
5:31 神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。
これが十字架の意味であり、キリストの福音です。
キリストが十字架上でお受けになった神の呪いは、イスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すためでした。神はそのために、イエス・キリストをお立てになり、彼を導き手、罪からの救い主とされました。そして今キリストは神の右の座で、神と共に働いておられるのです。
ペトロは「イスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すため」と言っていますように、悔い改めと罪の赦しが与えられるのは「イスラエル」です。ということは、イエスの十字架の責任は、イスラエル全体にあることになります。
イエスの血の責任、イエスを十字架へと追いやったのは、ユダヤ教指導者たちだけでなく、使徒たちも含む全イスラエルであり、その悔い改めと罪の赦しのためだとペトロは語ります。
このことは、私たちにも無関係ではありません。
イエスが十字架の上で血を流し、苦しまれたのは、私たちに代わって神の罰を受けられたのですから、その血の責任は、私たち一人一人にある、ということを覚えたいのです。
この話は、他人事ではなく、私たち自身にかかわる重要なことなのです。
イエスの十字架の血によって、私たちが神の御許へと行くことができる。
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14:6)という言葉がキリストの十字架によって確かに実現したのです。
最後5:32わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。
「この事実」正確には複数形で記されているので「これらの事実」です。
「これらの事実」とは、キリストの十字架の死と復活、その後天に昇り今神の座におられること。そしてこの一連の事は、私たちの救いのためだということまでを含みます。
神は、このようにして、キリストの十字架を通して救いの道を備えてくださったのです。
さらに32節では、それを語り伝える役割、証人としての使命があると語ります。神は、使徒たちを用いて、さらには信じた者たち、人間を用いて福音宣教を進められるのです。
しかし、同時に神の助け、働きもあります。
「神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。」とあるように、神の命令に従ってキリストの福音の証人として生きる者たちと共に、その働きと共に、聖霊の働きもあるのです。
先週、父なる神と子なるキリスト、そして聖霊は、別々の神ではなくお一人の神であり、共に私たちの救いのために働いているとお話ししました。
このように、今神は神を信じる者たちと共におられる。具体的には聖霊が共にいてくださいます。
イエスもこのことを弟子たちに教えておられます。
④ヨハネ15:26-27
15:26 わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。
15:27 あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。
ところで、今日の説教題は「誰に従うのか」です。
今日扱った5章27-32節には、「従う」という同じ言葉が2度使われています。
29節「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。」
32節「神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。」
神に従うとは、神の言葉に従って生きるということです。これは信仰をもってキリストの十字架を受け入れた人の生き方です。
「キリストの十字架は私の罪のため」と信じ受け入れるけれども「神の言葉には従わない」ということはあり得ません。信じることと従うことは一つのことだからです。
信仰をもって歩むとは、神の言葉に信頼して生きるということ。つまり、神の言葉に従う人生を生きるということです。
私は若い頃、神に従って生きる人生は窮屈な人生ではないかと思っていました。しかし、人生の中でいろんなことに出会い、いろんなことが起きた時に、必ず神の言葉に立ち帰る自分がいました。
皆様の歩みはどうでしょうか?
神に従って生きる歩み、人生は、自分の思いや周囲の意見に従って生きるよりずっと確実な歩みです。なぜなら、そこには神の守り、支えがあり、恵みがあるからです。
使徒たちも、そのことを確信したので、はっきりと「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。」と言うことができたのです。
人間の言葉を頼りに生きるのではなく、神の言葉に従って生きるなら、神はその人を恵みの中で生かし、そして永遠の命にまで伴ってくださいます。
旧約聖書、詩編の詩人も語っています。
⑤詩編1篇
1:1 いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず
1:2 主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。
1:3 その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。
1:4 神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
1:5 神に逆らう者は裁きに堪えず/罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。
1:6 神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。
どうか、神を信じ、神の言葉を心に蓄え、神に従がう幸いな歩みを選び取られますように。