2021年01月17日「多くの男女が信じた」

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多くの男女が信じた

日付
説教
木村恭子 牧師
聖書
使徒言行録 5章12節~16節

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使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた。一同は心を一つにしてソロモンの回廊に集まっていたが、ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった。しかし、民衆は彼らを称賛していた。そして、多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった。人々は病人を大通りに運び出し、担架や床に寝かせた。ペトロが通りかかるとき、せめてその影だけでも病人のだれかにかかるようにした。また、エルサレム付近の町からも、群衆が病人や汚れた霊に悩まされている人々を連れて集まって来たが、一人残らずいやしてもらった。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
使徒言行録 5章12節~16節

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<説教要約>
使徒言行録5章12-16節 「多くの男女が信じた」

今日与えられている聖書箇所は5章12節からですが、話は4章32節からの続きで、エルサレム教会の具体的な様子が記されています。ですから流れを確認するために、4章23節から振り返ります。
4章32節から37節では、信者たちが信仰面だけでなく生活面でも互いを配慮し合っていたこと。そしてその姿が周囲の人々からも好意を持たれていた様子が報告されていました。
ところが、5章1節から11節では、このエルサレム教会に罪が入り込んだ話が記されています。アナニアとサフィラという信者の夫妻が、土地を売った献金の一部を「全部」と偽って教会に献げたのです。
ペトロはこの事件を「サタンに心を奪われ、聖霊を欺いた」あるいは「主の霊を試した」と言いました。結果、夫妻は、その場で倒れ息が絶えるという重い裁きを受けたのです。
今まで、主イエスの十字架と復活を信じる信仰によって、一致して神への感謝の生活を送っていた群れの中に罪が入り込んできたのです。
この罪は教会を崩そうとするサタンの業、人を神から引き離そうとする働きです。また、これが初代教会への最初のサタンの攻撃でもあったので、神の裁きは大変に重いものになりました。
そして、最後の11節は「教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた。」とあり、教会内の人にも、周囲の人々にも、神への恐れが生じたと記されています。
このことが教会の内外にどのような影響を及ぼしていったか、というのが今日の話になります。

まず教会内への影響については、12節後半を見てください。「一同は心を一つにしてソロモンの回廊に集まっていた」とあります。信者たちは、この事件のために神を恐れ心弱くして、教会を離れるということはなく、逆に心を一つにして、ソロモンの回廊に集まり、神礼拝に集中したのです。
神を正しく恐れることで、彼らは神の前に正しく生きようとする思いが強くなり、それが主と主にある兄弟姉妹との一致を強めたのです。サタンの力は教会を崩すことができなかったということです。

では、教会外の人々にはどんな影響が出たのでしょうか。その話に入る前に、12節前半を見ましょう。
「使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた。」とあります。
「多くのしるしと不思議な業」とは、具体的には病の癒しのことです。しかも、「使徒たちの手で」とありますから、ペトロだけでなく、他の使徒たちも病気を癒したり、悪霊を退治したりできたのでしょう。これは、教会の初期、聖書がきちんと整う前の特別な状況下でのことで、今はこういうことはありませんが。
このような力が使徒たちの与えられたのは、神が彼らの祈りに応えられた結果です。
以前、ペトロとヨハネが、ユダヤ教指導者たちに「福音を語るな」と脅されたときに、仲間と共にこのことを具体的に祈っていたのです。使徒言行録4章29節にその祈りが記されています。
「どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」
使徒たちは、ユダヤ教指導者たちに、「今後イエスの名によってだれにも話すな」と脅されました。しかし、使徒たちは、その脅しにひるむことのないように、み言葉を大胆に語れるように、そのために、イエスの名、力によって、病気のいやしと、しるしと、不思議な業を行えるようにと祈っていたのです。
病気の癒しは今でいうなら愛の業です。キリストの福音は、み言葉と愛の業によって広がっていくのです。
神は、「教会の内外に恐れが生じた」というタイミングで、使徒たちの祈りに応えて、ペトロだけでなく、使徒たちみんなに癒しの力を与えたのです。
「使徒たちの手によって・・・行われた」とありますが、これはイエスの名による癒しであり、イエス・キリストの力、神の御業でした。
教会外の人々は、この癒しの業によって、信者たちが信じている神イエス・キリストが、憐れみ深い神であることを知ることになりました。

周囲の人々の具体的な反応は、13節以下に記されています。
13節、「ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった。しかし、民衆は彼らを称賛していた。」とありますが、ほかの者とは、教会外の人々のこと。彼らは信者たちの群れから一歩引いて、教会を遠巻きにしていましたが、彼らの生き方には共感を持っていました。新改訳聖書は「民は彼らを尊敬していた」と訳しています。このように、外側から遠巻きに見ている人々も、教会の働きや、信者たちのことを注目していたことが分かります。
14節には「多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった。」とあります。
あえて教会に加わらないことを選んだ者たちがいた一方で、多くの男女がキリストを神、救い主と信じ、信仰を告白して教会に加えられたのです。
また、ここでは「多くの男女が信じた」とあります。使徒言行録の中で「男女」という記述の仕方、女性信者への言及はここが初めてです。

15、16節には使徒たちの手によって癒しが行われると、多くの人々が癒しを求めて続々と使徒たちのもとにやってきた様子が記されています。
最後の「一人残らずいやしてもらった。」は、ルカ特有のちょっとオーバーな表現ですが、しかし多くの人が癒されたのでしょう。
また、「エルサレム付近の町からも」人々が病人を連れてやってきたという記述から、この話しがエルサレムに留まらず、その外側の町々にまで届いていた、ということもわかります。多分、キリストの福音よりも病気のいやしの方が先行して噂が広まったのでしょう。しかし同時に、この癒しを行っているのは、最近始まったばかりのキリスト教会の使徒だということ。彼らが信じているキリストの神は、病人を憐れみ、いやしてくださる神だということも伝えられたはずです。

ところで、今日の箇所は、教会内の人々、つまり信者とほかの人々という区別でお話ししました。
しかし、考えてみれば、教会外の人々がキリストを知り、信じて、教会内の人、信者になるわけです。
ですから、教会の外と内という区別は、わたしたちには知らされていないことでもあります。
私はここを読みながら、イエスがヨハネ福音書で語られた言葉を思い出しました。
ヨハネによる福音書10章14-16節です。
「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」
今も、教会の外に、キリストの声を聞き分け、キリストに従う羊がたくさんいて、この羊たちも、教会に加えられて一つの群れになるのです。

特に今、コロナ禍の中で多くの人が痛み苦しんでいます。心も体も疲れています。感染の不安におびえる生活が続いています。
そういう中で私たちの心と体を本当の意味で癒せるのは、迷える羊のために命を捨ててくださったキリストの力だけです。
ヨハネ10章27-28節も読みます。「 わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。 わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」
今、コロナ禍で苦しんでいる多くの方々に、キリストによる真実の癒しをお伝えしたいと願っています。

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