音声ファイル 礼拝説教を録音した音声ファイルを公開しています。 再生できない方はこちらをクリック 聖書の言葉 初めに、神は天地を創造された。日本聖書協会『聖書 新共同訳』創世記 1章1節 メッセージ 聖書:創世記1章1節(&ヨハネ伝 1 章 1−13 節) 説教題:聖書の最も大切な箇所 参照:ハイデルベルク信仰問答Q26ウェストミンスター小教理問答9問 中心的主張点:創造主と健全な関係と改めてもつことこそが救いである。 創世記1章1節: 初めに、神は天地を創造された。ヨハネによる福音書1章1−13節: 初めに言があった。言は神と共にあ った。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によ って成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝い ている。暗闇は光を理解しなかった。神から遣わされた一人の人がいた。 その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをす るため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼 は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光 で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によ って成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、 民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信 じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではな く、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生ま れたのである。序論:宣教師の使命とメッセージ:救いの道はこれだ!「宣教師」という言葉を聞くと、皆さんはどういうイメージが浮かんでくるでしょうか。目の前にいるこの私の顔でしょうか?それとも、昔関わりを持った他の外国の者でしょうか。ここに注意が必要です。まず、この私に固執しないでほしいです!欠けの多い者ですし、特殊な文化的背景や癖もいろいろあります。具体的に話せば恥ずかしいほどです。そのつもりではもちろんなかったけれども、失敗して人を躓かせたこともあります。 私自身にとって、「宣教師」と言われれば、むしろ自分の大先輩、神様の選んでくださった使徒パウロを思います。初代教会の土台を据えて、非常に多くの実績を残して、私たちにも与えられている記録と書簡のよっていわゆる宣教師の働きをしてくださっています。今もですね。 それはどういう中身なのかというと、命の道についての良き知らせを伝えることから始まります。心を開いて、真理について深く考えるように呼p. 1 びかけます。この道を知ることによって希望が与えられ、癒しが与えられ、 新しい関係がいろいろ示されます。また、人間にとって、最も基本的な問 題の解決を教えてくださいます。それは一言で言えば、「主イエス・キリ ストを信じなさい。そうすれば救われます。」使徒言行録 16 章 31 節に ある通りです。 これこそが本日の説教の結論です。もう少しお話ししますが、何かを今日お持ち帰りとするならば、これを心に納めていただきたいです。イェス様をあなたの人生の王になるようお招きすることが豊かな人生を送る秘訣です。イェス様の恵みによって疎外から救われます。新しい人間関係を築く道でもあります。神様が自分を創造してくださった本当の意図を発見し、徐々にその目的に沿って生きるようになります。自分を受け入れることができ、他の人を受け入れるようになります。目的を持つ人生を理解し、平安と愛を豊かに味わうようになります。 こんなことを言えば、考える量が非常に多く、多すぎると思うかもしれません。その通りです。けれども、この道に入り、救いを体験し始めることはごく簡単にできます。頭を下げ、目を閉じて、声を出しても出さなくても構いませんが、次のように祈ることです。「神様、主イェス様、私の心をご自身の住処にしてください。罪を赦し、あなたと隣人を愛する主の民にしてください。アーメン。」これだけです。本当です! もちろん、このようなことを形式的にだけ、あるいはマジックであるかのように祈るわけではありません。理解と信仰が必要です。たとえ、一部的な理解と不完全な信仰であっても大丈夫です。真心をもって祈りましょう。このために、つまり、理解が深まり、信仰が強められるようになることを目指します。ある者が言うように、特殊な外国の宗教を飲み込んでいただくのではありません。真の神様との縁がすでにあることを知っていただきたいです。1、聖書の最も好きな箇所? イ、あなたの愛称聖句は? ロ、テモテの第二の3章16節の指摘 ハ、ギデオン協会の便利な索引では、今日の説教題は「聖書の最も大切な箇所」です。それは皆さんに とってどこの箇所なのでしょうか。多くの人はいわゆる「愛称聖句」があ ります。あなたのがどれなのでしょうか。小さいときにキリスト教系の幼 稚園に通っていたなら、いろいろな聖書物語に紹介されたでしょう。現在 は東京 MX テレビで「スーパーブック」のアニメが放送されていますが、 聖書をいろいろな形で紹介されています。聖書をよく読んで、教会に通っp. 2ているなら、さらに深く聖書を知り、親しんでいるかもしれません。その 中でよく説教され、憧れるようになる箇所がいくつかある中で、詩編23 編が目立ちます。文語体で暗唱しておられる方もいらっしゃるでしょう。 讃美歌の終わりにある交読文の 6 番にあります。「主はわが牧者なり」と なっていますね。牧者=羊飼いですね。あるいは、教会の中で必ず出会う ヨハネによる福音書 3 章 16 節があります。「神は、その独り子をお与え になったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永 遠の命を得るためである。」と。これを愛称聖句にしている方々は少なく ありませんね。妻に聞いたら、愛称聖句は聖書の中で一番短い、ヨハネに よる福音書 11 章 35 節です。「イエス様は涙を流された。」原文では、 単語は二つあります。「イェス泣いた」なのです。冗談だと思って、「ど うしてこれを愛称聖句にしているか。短くて覚えやすいからか。」と聞き ました。妻は、「私たちの苦しみに共感出来るイエス様に憧れるから」と 答えました。なるほどなぁと思いました。私自身はイザヤ書 43 章1−5 節 です。どうぞ、ご自分でお調べくださいね!使徒パウロがその教えっ子テモテへ出した第2の手紙の 3 章 16 節もと ても大切な聖書です。「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教 え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」バランス をちゃんととる必要があり、全体像をつかむ必要があります。けれども、 あるところはもっと基本的、中心的です。そしてある箇所は、私たちが抱 く質問から見れば、決定的です。ところで、一つお勧めすることがありま す。いつでも入手できるギデオン協会の聖書がありますね。その聖書を開 けば、「おりにかなう助け」という簡単な索引があります。2、最も好きではなく、最も基本的で大切な聖書箇所 イ、創造主と被造物の区別を知る ロ、全てのものに創造主と縁がある ハ、創世記1:1は福音であるでも今は、今回は、好きな聖句ではなく、便利な手引きではなく、最も 基本的で大切な聖句は何であるかについて考えたいです。これについて、 私が出している結論はすでにお分かりでしょう。それは本日すでに朗読し た箇所です。実際に二つ読みました。一つだけ、おまけに短い一節だけが 惜しいと思いました。でもやはり、最も基本的で大切のがどれかというと、 天地創造をなさった 生ける神のことを紹介する創世記1章1節です。 ここで教えられることが非常に多くありますが、最も大事なことは次のことです。創造主がおられること。すべてのものはこのお方との関係があります、つまり、創造主と造られたものであるわけです。したがって、私p. 3たちもこの方との関係があり、いわゆる「縁」があります。存在する物事は無原則的に、偶然に、つまり、無意味で生え出たわけではありません。このお方との関係を知ることは己を本当の意味で理解することに相当します。もし、このお方との関係が崩れてしまっていれば、これを正すあるいは作り直すことは最も大切にすべきことです。もし、このお方との関係が正常で正しければ、これによって間違いなく満たされ、祝福されます。創世記1章1節は福音です。また、最も大切なことを教えてくれます。 もちろん、このみことばはこれを最初に聞いた人たちにとって福音でした。 科学的な知識と理解があまりない時代で、いろいろな自然現象が怖くて、 たくさんの迷信に囚われました。有牧民で、農業を中心にする人なら、自 然の支配下に置かれています。作物のために「自然の神様」、「麦の神 様」、「嵐の神様」に自分の幼子さえを捧げ物とすることもあります。け れども、この聖句は、「ここも神様の御国です」、「神様の造られた、ま た支配するものです」と指摘してくれます。詩編 24 編1−2節がこう言 う通りです。「地とそこに満ちるもの/世界とそこに住むものは、主のも の。主は、大海の上に地の基を置き/潮の流れの上に世界を築かれた。」 しかし、私たちはそんなに昔の人たちと違っているでしょうか。私たちはカーマを言ったり、偶然と言ったりします。また、どこの神社に行っても、おはらいの様子を見れば、今日にも存在する迷信に出会います。皇室の儀式もこれに満ちています。 けれどもみことばが宣言します。「これは創造主が造られたものです。生ける神のものです。」と。3、創世記1章1節を少し分析しようイ、初めに ベレシート In the beginningロ、創造した バラ createdハ、神 エロヒム God二、天と地 ハシェマイム ワハアレツ the heavens and the earth さて、創世記1章1節を細かく見てみましょう。原文では五つの言葉からなっています。 1、「ベレエシート」のヘブライ語の単語は新共同訳聖書では「初めに」と翻訳されていますが、これは誤解しやすい翻訳です。「まず」という意味ではありません。「初めに」という場合は、すべて存在しているもに始まりがあった」と宣言しています。もちろん、「初めにこれを知るべし」というのもその通りですが、聖書は違うことを強調します。創造主以外に、すべてのものの始まりがあった、と。初めがあって、今があって、終わりがある、と。p. 42、次の言葉は「バラ」です。「造った」という意味です。この単語を 翻訳する場合は日本語が便利です。熟語が出来るからですね。この場合は 「創造」が本意に当たっています。ヘブライ人への手紙の 11 章3節、あ るいはヨハネによる福音書1章3節もこれに一致しています。創造主なる 神は全てあるものを無からお造りになりました。もちろん、それは神様ご 自身以外にです。全てあるものが一人でに もともとあった混沌している 物質から現れてきたわけではありません。造り主と造られたものの区別が あります。ですから、「造り主と被造物」と言います。造り主が被造物か ら発展して現れるわけではありません。 3、この造り主とはどなたのことなのかというと、「エロヒム」と言います。「神」と翻訳しています。「ザ・ゴッド」という意味です。ヘブライ語では複数形の名詞です。けれども、「神々」とは言いません。日本語の「神」にした場合は、いろいろな問題が伴ってきます。常にいろいろな神様がいるという前提があるからです。聖書が与えられたまたこれを記したモーセやイスラエル人にとって、神は唯一です。他のものは、たとえ「神」と呼んでも、このお方とは違います。唯一神で、主なる神、創造主がこれなのです。主なる神という場合は、主たる神という意味でもありません。天地創造の前から永久に存在しておられ、また、永遠に存在し続けるお方です。4−5、の言葉は天と地です。これはつまり、全てという意味です。大 宇宙、天地万物を指します。「天も地も」と言っても正当な翻訳です。 「天地」という一つの熟語で翻訳することはちょっとまずいです。ヘブラ イ語では「天」「と」「地」となっています。すなわち、二つの世界があ ることを強調します。これについて、ヨハネ伝1:3、イザヤ書40:1 2、26、45:12、18、ヨブ記38−40章をご参照くださると明 確です。4、創造論 vs 進化論を考える 聖書と科学は対立するか? 真理は一つしかない! 天地創造を考える時にどうしても進化論の話にぶつかりますが、これについてどう考えたらよいでしょうか。北米のメディアは神様による天地創造を信じる方々を馬鹿にする、愚か者で無教育だと描写します。けれども、ここではっきり言いたいです。矛盾することはありません。科学者と聖書信者が無解決の矛盾にあるではありません。片方が正しく、もう一方が間違っているのではないのです。むしろ、両者に求められるのは謙遜です。仮説や推定を真理としてこだわるべきでもありません。例えば、聖書にあp. 5る数字的データーを見て、自信満々で天地創造が約 6000 年前に起こった 出来事だと、あるいは、7日間、つまり、7かける24時間で完成したと 主張するものも、今の大宇宙は150億年前のビッグバングによって起こ ったと主張するものも どちらも自分の理解力の限界を認めるべきです。 科学の世界において、新しいことを発見する時には、「教科書を書き直さ なければならない」というようなことをよく聞きます。聖書釈義学に変動 も場合によってあります。ガリレオの考えによって本人は教会によって神 冒涜罪を犯す異教徒だと宣言するのもどんなに愚かなことだったでしょう。 ヘブライ人への手紙 11 章3節によりますと、私たちは信仰によって、神 様がすべてのものを無から造られたと理解していると言っています。聖書 の研究にしても、科学の研究についても、真理の一部しか明瞭に理解して いません。真理は結局一つです。その矛盾に見えるものが実は一致してい ると理解できるまではなお努力が求められています。そしてその中にあっ て、神様の素晴らしい御技に驚きと感動を繰り返していくことになるでし ょう。星座を望遠鏡で見ても、細胞を顕微鏡で見ても、主の知恵と巧みに 驚くばかりするでしょう。こうして、私たちは神の知恵と力を見て、その 主の神性を認め、すべての被造物とともに主をほめたたえます。また同時、 主の罪に対する怒りを理解して、創造された世界がもとにあった甚だ良い ものとは違ってきていることに気がつきます。特に人間の世界において大 いに狂ってしまっていることがわかってきます。これは、私たち人間の主 に反逆していることによります。創世記 3 章 11 節にある通りです。結論:大いなる創造主が私たちとの関係を望んでおられる! それなのに、偉大なる創造主は、私たちをお造りになった神は、私たちがご自身を知るようになることを求めておられます。私たちが御手によって造られたことを知ってもらおうとしておられます。私たちがたとえ、これを否定してしまうようなことがあっても、それだからといって、その事実を変えるわけではありません。真理を無視しても、なお真理は真理です。そして今日、私たちに、この真理を知ってもらい、私たちが何者であるかを理解してもらう機会を一方的に与えてくださいます。私たちと創造主の関係を新たに持つようにと呼びかけてくださいます。 私たちは遠くへ主から迷い出ているかもしれません。でも、立ち返りなさいと声を耳に、心に聞かせてくださいます。独り子の主イェスの贖いの十字架の技によって、和解と再出発の道を備えてくださいました。 私たちをお造りになった創造主は、私たちは本当に価値あるものとしてみなしてくださいます。その独り子をお与えになったほどです!ですから、このお方に祈ろうではないでしょうか。アーメン。p. 6 関連する説教を探す 2020年の日曜朝の礼拝 『創世記』
聖書:創世記1章1節(&ヨハネ伝 1 章 1−13 節) 説教題:聖書の最も大切な箇所 参照:ハイデルベルク信仰問答Q26
ウェストミンスター小教理問答9問 中心的主張点:創造主と健全な関係と改めてもつことこそが救いである。 創世記1章1節: 初めに、神は天地を創造された。
ヨハネによる福音書1章1−13節: 初めに言があった。言は神と共にあ った。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によ って成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝い ている。暗闇は光を理解しなかった。神から遣わされた一人の人がいた。 その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをす るため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼 は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光 で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によ って成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、 民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信 じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではな く、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生ま れたのである。
序論:宣教師の使命とメッセージ:救いの道はこれだ!
「宣教師」という言葉を聞くと、皆さんはどういうイメージが浮かんでく
るでしょうか。目の前にいるこの私の顔でしょうか?それとも、昔関わり
を持った他の外国の者でしょうか。ここに注意が必要です。まず、この私
に固執しないでほしいです!欠けの多い者ですし、特殊な文化的背景や癖
もいろいろあります。具体的に話せば恥ずかしいほどです。そのつもりで
はもちろんなかったけれども、失敗して人を躓かせたこともあります。
私自身にとって、「宣教師」と言われれば、むしろ自分の大先輩、神様
の選んでくださった使徒パウロを思います。初代教会の土台を据えて、非
常に多くの実績を残して、私たちにも与えられている記録と書簡のよって
いわゆる宣教師の働きをしてくださっています。今もですね。
それはどういう中身なのかというと、命の道についての良き知らせを伝
えることから始まります。心を開いて、真理について深く考えるように呼
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びかけます。この道を知ることによって希望が与えられ、癒しが与えられ、 新しい関係がいろいろ示されます。また、人間にとって、最も基本的な問 題の解決を教えてくださいます。それは一言で言えば、「主イエス・キリ ストを信じなさい。そうすれば救われます。」使徒言行録 16 章 31 節に ある通りです。
これこそが本日の説教の結論です。もう少しお話ししますが、何かを今
日お持ち帰りとするならば、これを心に納めていただきたいです。イェス
様をあなたの人生の王になるようお招きすることが豊かな人生を送る秘訣
です。イェス様の恵みによって疎外から救われます。新しい人間関係を築
く道でもあります。神様が自分を創造してくださった本当の意図を発見し、
徐々にその目的に沿って生きるようになります。自分を受け入れることが
でき、他の人を受け入れるようになります。目的を持つ人生を理解し、平
安と愛を豊かに味わうようになります。
こんなことを言えば、考える量が非常に多く、多すぎると思うかもしれ
ません。その通りです。けれども、この道に入り、救いを体験し始めるこ
とはごく簡単にできます。頭を下げ、目を閉じて、声を出しても出さなく
ても構いませんが、次のように祈ることです。「神様、主イェス様、私の
心をご自身の住処にしてください。罪を赦し、あなたと隣人を愛する主の
民にしてください。アーメン。」これだけです。本当です!
もちろん、このようなことを形式的にだけ、あるいはマジックであるか
のように祈るわけではありません。理解と信仰が必要です。たとえ、一部
的な理解と不完全な信仰であっても大丈夫です。真心をもって祈りましょ
う。このために、つまり、理解が深まり、信仰が強められるようになるこ
とを目指します。ある者が言うように、特殊な外国の宗教を飲み込んでい
ただくのではありません。真の神様との縁がすでにあることを知っていた
だきたいです。
1、聖書の最も好きな箇所?
イ、あなたの愛称聖句は?
ロ、テモテの第二の3章16節の指摘
ハ、ギデオン協会の便利な索引
では、今日の説教題は「聖書の最も大切な箇所」です。それは皆さんに とってどこの箇所なのでしょうか。多くの人はいわゆる「愛称聖句」があ ります。あなたのがどれなのでしょうか。小さいときにキリスト教系の幼 稚園に通っていたなら、いろいろな聖書物語に紹介されたでしょう。現在 は東京 MX テレビで「スーパーブック」のアニメが放送されていますが、 聖書をいろいろな形で紹介されています。聖書をよく読んで、教会に通っ
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ているなら、さらに深く聖書を知り、親しんでいるかもしれません。その 中でよく説教され、憧れるようになる箇所がいくつかある中で、詩編23 編が目立ちます。文語体で暗唱しておられる方もいらっしゃるでしょう。 讃美歌の終わりにある交読文の 6 番にあります。「主はわが牧者なり」と なっていますね。牧者=羊飼いですね。あるいは、教会の中で必ず出会う ヨハネによる福音書 3 章 16 節があります。「神は、その独り子をお与え になったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永 遠の命を得るためである。」と。これを愛称聖句にしている方々は少なく ありませんね。妻に聞いたら、愛称聖句は聖書の中で一番短い、ヨハネに よる福音書 11 章 35 節です。「イエス様は涙を流された。」原文では、 単語は二つあります。「イェス泣いた」なのです。冗談だと思って、「ど うしてこれを愛称聖句にしているか。短くて覚えやすいからか。」と聞き ました。妻は、「私たちの苦しみに共感出来るイエス様に憧れるから」と 答えました。なるほどなぁと思いました。私自身はイザヤ書 43 章1−5 節 です。どうぞ、ご自分でお調べくださいね!
使徒パウロがその教えっ子テモテへ出した第2の手紙の 3 章 16 節もと ても大切な聖書です。「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教 え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」バランス をちゃんととる必要があり、全体像をつかむ必要があります。けれども、 あるところはもっと基本的、中心的です。そしてある箇所は、私たちが抱 く質問から見れば、決定的です。ところで、一つお勧めすることがありま す。いつでも入手できるギデオン協会の聖書がありますね。その聖書を開 けば、「おりにかなう助け」という簡単な索引があります。
2、最も好きではなく、最も基本的で大切な聖書箇所 イ、創造主と被造物の区別を知る ロ、全てのものに創造主と縁がある ハ、創世記1:1は福音である
でも今は、今回は、好きな聖句ではなく、便利な手引きではなく、最も 基本的で大切な聖句は何であるかについて考えたいです。これについて、 私が出している結論はすでにお分かりでしょう。それは本日すでに朗読し た箇所です。実際に二つ読みました。一つだけ、おまけに短い一節だけが 惜しいと思いました。でもやはり、最も基本的で大切のがどれかというと、 天地創造をなさった 生ける神のことを紹介する創世記1章1節です。
ここで教えられることが非常に多くありますが、最も大事なことは次の
ことです。創造主がおられること。すべてのものはこのお方との関係があ
ります、つまり、創造主と造られたものであるわけです。したがって、私
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たちもこの方との関係があり、いわゆる「縁」があります。存在する物事
は無原則的に、偶然に、つまり、無意味で生え出たわけではありません。
このお方との関係を知ることは己を本当の意味で理解することに相当しま
す。もし、このお方との関係が崩れてしまっていれば、これを正すあるい
は作り直すことは最も大切にすべきことです。もし、このお方との関係が
正常で正しければ、これによって間違いなく満たされ、祝福されます。
創世記1章1節は福音です。また、最も大切なことを教えてくれます。 もちろん、このみことばはこれを最初に聞いた人たちにとって福音でした。 科学的な知識と理解があまりない時代で、いろいろな自然現象が怖くて、 たくさんの迷信に囚われました。有牧民で、農業を中心にする人なら、自 然の支配下に置かれています。作物のために「自然の神様」、「麦の神 様」、「嵐の神様」に自分の幼子さえを捧げ物とすることもあります。け れども、この聖句は、「ここも神様の御国です」、「神様の造られた、ま た支配するものです」と指摘してくれます。詩編 24 編1−2節がこう言 う通りです。「地とそこに満ちるもの/世界とそこに住むものは、主のも の。主は、大海の上に地の基を置き/潮の流れの上に世界を築かれた。」
しかし、私たちはそんなに昔の人たちと違っているでしょうか。私たち
はカーマを言ったり、偶然と言ったりします。また、どこの神社に行って
も、おはらいの様子を見れば、今日にも存在する迷信に出会います。皇室
の儀式もこれに満ちています。
けれどもみことばが宣言します。「これは創造主が造られたものです。
生ける神のものです。」と。
3、創世記1章1節を少し分析しよう
イ、初めに ベレシート In the beginning
ロ、創造した バラ created
ハ、神 エロヒム God
二、天と地 ハシェマイム ワハアレツ the heavens and the earth
さて、創世記1章1節を細かく見てみましょう。原文では五つの言葉か
らなっています。
1、「ベレエシート」のヘブライ語の単語は新共同訳聖書では「初め
に」と翻訳されていますが、これは誤解しやすい翻訳です。「まず」とい
う意味ではありません。「初めに」という場合は、すべて存在しているも
に始まりがあった」と宣言しています。もちろん、「初めにこれを知るべ
し」というのもその通りですが、聖書は違うことを強調します。創造主以
外に、すべてのものの始まりがあった、と。初めがあって、今があって、
終わりがある、と。
p. 4
2、次の言葉は「バラ」です。「造った」という意味です。この単語を 翻訳する場合は日本語が便利です。熟語が出来るからですね。この場合は 「創造」が本意に当たっています。ヘブライ人への手紙の 11 章3節、あ るいはヨハネによる福音書1章3節もこれに一致しています。創造主なる 神は全てあるものを無からお造りになりました。もちろん、それは神様ご 自身以外にです。全てあるものが一人でに もともとあった混沌している 物質から現れてきたわけではありません。造り主と造られたものの区別が あります。ですから、「造り主と被造物」と言います。造り主が被造物か ら発展して現れるわけではありません。
3、この造り主とはどなたのことなのかというと、「エロヒム」と言い
ます。「神」と翻訳しています。「ザ・ゴッド」という意味です。ヘブラ
イ語では複数形の名詞です。けれども、「神々」とは言いません。日本語
の「神」にした場合は、いろいろな問題が伴ってきます。常にいろいろな
神様がいるという前提があるからです。聖書が与えられたまたこれを記し
たモーセやイスラエル人にとって、神は唯一です。他のものは、たとえ
「神」と呼んでも、このお方とは違います。唯一神で、主なる神、創造主
がこれなのです。主なる神という場合は、主たる神という意味でもありま
せん。天地創造の前から永久に存在しておられ、また、永遠に存在し続け
るお方です。
4−5、の言葉は天と地です。これはつまり、全てという意味です。大 宇宙、天地万物を指します。「天も地も」と言っても正当な翻訳です。 「天地」という一つの熟語で翻訳することはちょっとまずいです。ヘブラ イ語では「天」「と」「地」となっています。すなわち、二つの世界があ ることを強調します。これについて、ヨハネ伝1:3、イザヤ書40:1 2、26、45:12、18、ヨブ記38−40章をご参照くださると明 確です。
4、創造論 vs 進化論を考える 聖書と科学は対立するか? 真理は一つしかない!
天地創造を考える時にどうしても進化論の話にぶつかりますが、これに
ついてどう考えたらよいでしょうか。北米のメディアは神様による天地創
造を信じる方々を馬鹿にする、愚か者で無教育だと描写します。けれども、
ここではっきり言いたいです。矛盾することはありません。科学者と聖書
信者が無解決の矛盾にあるではありません。片方が正しく、もう一方が間
違っているのではないのです。むしろ、両者に求められるのは謙遜です。
仮説や推定を真理としてこだわるべきでもありません。例えば、聖書にあ
p. 5
る数字的データーを見て、自信満々で天地創造が約 6000 年前に起こった 出来事だと、あるいは、7日間、つまり、7かける24時間で完成したと 主張するものも、今の大宇宙は150億年前のビッグバングによって起こ ったと主張するものも どちらも自分の理解力の限界を認めるべきです。 科学の世界において、新しいことを発見する時には、「教科書を書き直さ なければならない」というようなことをよく聞きます。聖書釈義学に変動 も場合によってあります。ガリレオの考えによって本人は教会によって神 冒涜罪を犯す異教徒だと宣言するのもどんなに愚かなことだったでしょう。 ヘブライ人への手紙 11 章3節によりますと、私たちは信仰によって、神 様がすべてのものを無から造られたと理解していると言っています。聖書 の研究にしても、科学の研究についても、真理の一部しか明瞭に理解して いません。真理は結局一つです。その矛盾に見えるものが実は一致してい ると理解できるまではなお努力が求められています。そしてその中にあっ て、神様の素晴らしい御技に驚きと感動を繰り返していくことになるでし ょう。星座を望遠鏡で見ても、細胞を顕微鏡で見ても、主の知恵と巧みに 驚くばかりするでしょう。こうして、私たちは神の知恵と力を見て、その 主の神性を認め、すべての被造物とともに主をほめたたえます。また同時、 主の罪に対する怒りを理解して、創造された世界がもとにあった甚だ良い ものとは違ってきていることに気がつきます。特に人間の世界において大 いに狂ってしまっていることがわかってきます。これは、私たち人間の主 に反逆していることによります。創世記 3 章 11 節にある通りです。
結論:大いなる創造主が私たちとの関係を望んでおられる!
それなのに、偉大なる創造主は、私たちをお造りになった神は、私たち
がご自身を知るようになることを求めておられます。私たちが御手によっ
て造られたことを知ってもらおうとしておられます。私たちがたとえ、こ
れを否定してしまうようなことがあっても、それだからといって、その事
実を変えるわけではありません。真理を無視しても、なお真理は真理です。
そして今日、私たちに、この真理を知ってもらい、私たちが何者であるか
を理解してもらう機会を一方的に与えてくださいます。私たちと創造主の
関係を新たに持つようにと呼びかけてくださいます。
私たちは遠くへ主から迷い出ているかもしれません。でも、立ち返りな
さいと声を耳に、心に聞かせてくださいます。独り子の主イェスの贖いの
十字架の技によって、和解と再出発の道を備えてくださいました。
私たちをお造りになった創造主は、私たちは本当に価値あるものとして
みなしてくださいます。その独り子をお与えになったほどです!ですから、
このお方に祈ろうではないでしょうか。アーメン。
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