2026年05月16日「全てを見ている神」
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全てを見ている神
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- 木村恭子 牧師
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マルコによる福音書 12章38節~44節
聖書の言葉
マルコ12章38-44節
12:38 イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、
12:39 会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、
12:40 また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」
12:41 イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。
12:42 ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。
12:43 イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。
12:44 皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 12章38節~44節
メッセージ
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説教要約 マルコ福音書12章38-44節「全てを見ている神」
本日は、新共同訳聖書の小見出しで言えば「律法学者を非難する」と「やもめの献金」のところ、両方を一緒に扱います。
まず、38-40節の「律法学者を非難する」というところから、2つのことを教えられたいと思います。
一つは、人の目を気にする生き方への警告 ⇒「人一倍厳しい裁きを受ける」ということ。
もう一つは、神は心を見る ⇒ 「神はわたしたちの内側、私たちの心をご覧になっている。神に隠しておくことはできない。 人との比較ではなく、神の前での正しさを求めよう。」ということです。
まず、人の目を気にする生き方への警告についてですが、
イエス様は「律法学者に気をつけなさい。」といわれます。「律法学者」については、何度もお話ししていますが、旧約聖書と律法の教育を受けた知識人で、宗教指導者。人々からは尊敬され、「先生」と呼ばれ、強い影響力を持つエリート層。民衆に神の言葉を教えるという役割もありました。
イエス様は、そういう彼らを警戒するようにと言われたのです。ここでイエス様が指摘された彼らの5つの行為は、長い衣を着て歩き回る、広場であいさつされるのを好む、会堂では上席、宴会では上座に座るのを好む、やもめの家を食い物にする、見せかけの長い祈りをする、です。
人に敬われ、大切に扱われるのは、だれでもうれしいものです。それが結果であるなら罪とは言えないでしょう。しかし、それを自ら求めに行くのは自己顕示欲であり、金銭欲や名誉欲と同じように罪です。
でもまあ、そこまでならいいとしても、まだ先があります。
頼るべき家族のない高齢の婦人の家に入り込んで、食事や、献げ物、献金を求める律法学者たちがいたようです。さらに「見せかけの長い祈りをする」となると、これは神への欺きです。
律法学者は聖書と律法に精通していて、神が求めておられること、神が喜ばれることがわかっているはず。
ですから、まず自分が、神の前にどう生きるかを考えるべきなのに、彼らの目は、神ではなく、人の関心、人の評価に向いているのです。さらに、自分より立場の弱い者を、平然と踏みつけている。
そんな彼らの生き方に対して、イエス様は
12:40b「このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」と言われたのです。
では、神はわたしたちをどのようにご覧になり、評価なさるのでしょうか。
人は、その人の考えや心の中のことはわかりません。 長い祈りが見せかけなのか、本心からの祈りなのかは、判断できません。しかし、神は私たちの内側、心の思いまでご覧になります。聖書の言葉を参照しましょう。
①サムエル上16:7しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」
預言者サムエルに神が語った言葉です。
②ルカ16:15そこで、イエスは言われた。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。
金銭に執着するファリサイ人に対して、イエス様が語られた言葉です。
「人に正しさを見せびらかす」とは、その心が神ではなく人に向いているということ。
「人に尊ばれる者」とは、「人の間で高ぶる者」ということです。
「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。
③ヘブライ4:13更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。
これは、最後の審判のときに、私たち一人一人が神の前に立たされるということです。
そういう時が来ることも覚えて、わたしたちの心の中までをご覧になっている神の目を意識した生き方、神に喜ばれる生き方が大切、ということです。
ここまでのことを理解したうえで、次の12章41-44節を考えましょう。
この日イエス様は、エルサレム神殿で人々が献金する様子を見ておられました。エルサレム神殿での献金は、献金した額が周囲の人々にもわかる仕組みになっているようです。人々は、献金の額でその人を評価しました。しかし、イエス様が大切にされたのは、献金の金額ではなく、献げる心、信仰心でした。
金持ちたちは、周囲の人の目を気にして、多くの献金をしました。しかしそれは、有り余る中からの献金です。一方で、貧しい婦人は、乏しい中から生活費を全部献げました。
申命記 10:17-18にこんな約束があります。「あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。」イスラエルの神は、旧約の時代から、小さい者、弱い者、力のない者、虐げられている者に配慮なさる神です。
そして、この貧しい婦人は、神がこのような方だと信じており、この約束を信頼しています。おそらくこれまでの人生において、この信頼が裏切られることはなかったのでしょう。いろんな形で、彼女の人生には神の配慮があり、隣人や周囲の人々の手を通して、あるいはいろんな形で、必要が備えられてきたのでしょう。神が、自分の歩みに目を留めていてくださる。神が、私の必要をご存知で、必ず神の助けがある。そういう信仰があるので、彼女はこの時は全生活費を献金するという仕方で、心からの感謝を献げたのです。
ですから、これは献金の話ではありません。神を信頼してどのように生きるか、という信仰心の話しです。
神は、私たちの人生の歩みに目を留めていてくださり、その時々に必要な神の助けをくださいます。
それは、順調な時だけでなく、不調のときにこそ、です。
自分にとっていい状況と思えるときも、悪い状況だ感じるときも、すべて神の恵みの中にあるのです。
高齢のゆえに、体調がすぐれず不調のとき、病のとき、私たちには先が見通せないことも多いのですけれど、それ等を含めて神は、全てをご存知で、ご自身のご計画と恵みの中で私たちを配慮してくださる。
そのことがわかっていると、いろんなことが起きても、私たちは、あわてることなく、自らの歩みを神に委ねて、粛々と歩むことができます。
キリストの十字架と罪の赦しを信じる私たちの人生には、神の愛と神の配慮が注がれています。
ですから、人の目を気にしたり、人と比較したりする必要はありません。
ただ、神の前に、喜んでいただける歩みを心掛け、神に信頼して歩みを進めていきましょう。