2026年05月10日「キリストはダビデの子か」

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キリストはダビデの子か

日付
説教
木村恭子 牧師
聖書
マルコによる福音書 12章35節~37節

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マルコ福音書12章35-37節
12:35 イエスは神殿の境内で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。
12:36 ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を/あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』
12:37 このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 12章35節~37節

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説教要約 マルコ福音書12章35-37節 「キリストはダビデの子か」 

今日はマルコ12章35節から37節です。新共同訳聖書の小見出しには「ダビデの子についての問答」とあり、本日の説教題は「キリストはダビデの子か」です。
まず言葉の確認をしておきます。「メシア」はヘブライ語由来の言葉で「油注がれて神に選ばれた者」という意味。そしてメシアのギリシャ語が「キリスト」です。
旧約聖書のメシア預言では、「ダビデの家系から生まれる」と記されています。それも、旧約聖書の複数の預言者が似たような預言を記しています。(イザヤ書9:6‐7,11:1,10,エレミヤ書23:5‐6,33:14‐18,エゼキエル34:23‐24等)
一か所だけ、記しておきます。
エレミヤ書 23:5b-6「見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え/この国に正義と恵みの業を行う。彼の代にユダは救われ/イスラエルは安らかに住む。彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる。」

しかし、ここで主イエスは、改めて人々に問いかけています。「どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。 と。
主イエスは今日の箇所で、ダビデ由来の詩篇をお示しになり、言葉を続けます。
12:36-37a ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を/あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」

主イエスはここで、聖書を深く学んでいる律法学者にたいして「ダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか」と問われました。
メシアはダビデの子ではない、と言いたいのでしょうか? そうではありません。複数の預言者が確かに、メシアはダビデの子。人間としては、ダビデの子孫から誕生すると預言しています。
しかしそれだけではないことを、主イエスはここで示しておられるのです。36節後半。
12:36b『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を/あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』
これは、詩編110編1節の引用です。
主イエスは、詩編110編1節を、聖霊によってダビデに与えられたメシア預言だと教えています。
「主は、わたしの主にお告げになった。」という箇所は、ギリシャ語ではどちらも「主」ですが、詩篇のヘブライ語では異なる言葉です。
最初の「主」は「ヤーウェ」で、天の神のこと。「わたしの主」のほうの「主」は「メシア」をさしています。そして「わたし」はダビデ自身です。ですから、ここでのダビデ預言はこういなります。
『神は、(私の主である)メシアにお告げになった。「私の右の座に着きなさい。・・・」と』です。

「わたしの右の座」とは、神と並んで座る場所、そして右側は、権威の座です。
与えられるメシアは、神と並んで、しかも神の右側に座れる方。神と等しい権威のある方。
メシアはそういう方だと、ダビデが預言している、と主イエスは教えておられるのです。

メシアはダビデの血筋から生まれますが、ダビデの血筋、ダビデの家系から生まれる人は、ほかにもいます。
ですから、「ダビデの子孫」であることが重要なのではなく、父なる神が、その方の権威を認め「自分の右に座るように」と言ったことが重要です。
神が与えようとしているメシアは、人間ではなく「神の御子だ」というのがここでの主イエスの主張であり、主イエスが人々に伝えたいことなのです。

後にパウロが、ローマの信徒への手紙で記している通りです。
ローマ1:3b-4「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。」
主イエス・キリストは、肉によれば人間として、血筋から言えば、ダビデの子孫として生まれました。
しかしそれ以上に重要なことは、メシアは、聖霊の力によって生まれ、十字架につけられ、死んで葬られ、復活して天に昇り、今は神の右の座におられる。これが主イエスであり、メシア、キリストだということです。

ですが、当時の人々のメシア待望はもっと人間的なものでした。
彼らの期待はメシアが自分たちをローマ帝国の支配から解放してくれること、イスラエル王国を回復してかつてのダビデ王国のような国にしてくれることでした。人々は「自分たちの問題を解決してくれるメシア」を待望していたのです。
しかし神がお与えになるメシアは、そのような地上的メシアではありません。
メシアの王国は、地上の王国ではなく、霊的な王国、神の国です。
彼らが望んでいる誤ったメシア像にたいして、主イエスは、まず与えられるメシアが神と等しい者、神であることを教えて、メシアがダビデ以上のものであることを示されたのです。

今日の箇所は、当時の人々が期待していたメシア像と、実際のメシアとの間に大きな隔たりがあることを教えています。
ところで、私たちはどうでしょうか。
私たちはメシア、キリストに何を求め、何を期待しているでしょうか? 地上で、イエス・キリストを信じ生きていくとき、彼に何を求めているのでしょうか?
もしかしたら、私たちも、困ったときに助けてくれる神、私の願いを叶えてくれる神、私の人生をうまくいかせてくれる神。そんな「メシア像」を期待してはいないでしょうか。
今日の箇所で、私たちにも、「あなたはメシア・キリストをどう理解し、どう信じているか」が問われていると思うのです。

メシアは、私たちの都合に合わせて、私たちを助けてくださる方ではありません。むしろ私たちの人生を支配する主です。ダビデでさえ、その方を「私の主」と呼びました。それなら、私たちはどうでしょうか。
私たちもこの問いに向き合いたいと思います。

あなたにとって主イエスは、ダビデの子。私を罪から救い、天国に連れて行ってくれる都合のいい救い主でしょうか。
あるいは、ダビデが告白したように「私の主」として、主イエスを信じ、その方の言葉に従っていくべき方でしょうか?
信仰の歩みにも、いろんなことが起こります。主イエスを信じていても病気になるし、信じていても困難や試練もあります。
しかし、幸いな時も、そうでないと感じるときにも、主イエスを私の主と信じ従う中で、主が私の近くにいてくださる確かな助け主であることが、わかってくるのです。信仰は心の中の問題ではなく、実際の行い、行動までが求められます。主イエスをメシア・キリストと信じ、主イエスの言葉に従って生きるときに、地上でも、またその後に続く世でも、神の恵みと憐みの中で、幸いな歩みができることを覚えたいと思うのです。

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