2026年04月26日「神のようになれる? 」

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神のようになれる? 

日付
説教
木村恭子 牧師
聖書
創世記 3章1節~13節

聖句のアイコン聖書の言葉

創世記3章1-13節
3:1 主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」
3:2 女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。
3:3 でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」
3:4 蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。
3:5 それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
3:6 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。
3:7 二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。
3:8 その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、
3:9 主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」
3:10 彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」
3:11 神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」
3:12 アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」
3:13 主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
創世記 3章1節~13節

原稿のアイコンメッセージ

今朝は「救済史説教」の2回目です。
前回は、神による天地創造と、人間の創造についてみましたが、今回は人の心に罪が入る、という話です。

神は、美しく整えられたエデンを彼らの住む場所としてお与えになり、「園を耕し守る」という働きをお与えになりました。人が耕し守る園の木の実は彼らの食料となるのです。
そしてこの後の神の言葉、16-17節が重要です。「主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」
ここには神の命令「園のすべての木から取って食べなさい。」「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない」があります。
しかし同時に、人には、自由意思が与えられていましたから、神の命令を守ることも、守らないことも、選ぶことができました。神は人を、主人の言葉に従う奴隷のような存在に創造されたのではなく、人が、神を愛し、喜んで神に従う存在となることを期待しておられたのです。そしてそれこそが幸いな道でした。

しかしそこに、蛇が登場し、人を惑わします。蛇は言いました「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」と。蛇の言葉は、最初から計画的な言い回しでした。
蛇は、人が、神に対してゆがんだ見方をするよう、仕向けています。女は、蛇の言葉にのせられて答えます。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」
女の言葉の後半、「園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから」は神が言われた言葉とは明らかに違います。
蛇はさらに神の言葉を捻じ曲げ、否定し、偽ります。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
蛇の言葉は巧みでした。この言葉は「神のように善悪を知るものとなる」、「神のようになれる」という誘惑でした。

創世記3:5の「神のように善悪を知る者となる」は、「道徳的に成熟する」、「善悪の判断ができるようになる」というような、いい意味ではありません。
「善悪を知る」とは、ヘブライ語的な表現や旧約全体の用法では、「善悪を決定する権威を持つ」ということ。もっというと「善悪の判断基準を神から奪い取る」ことを意味します。
善悪の木の実を食べると、「神に従う存在」から「自分が善悪を決める神の位置に立つ存在」になるというのが、蛇の誘惑だったのです。
神に創造された人間は、神を信頼し、神の善悪判断に生きる存在として幸いに生きることができるはずでした。ところが蛇は、「決して死ぬことはない。神は、あなたが神のようになるのを妨げているのだ。」と 神の善意を疑わせたのです。
そして二人は、まんまとその罠にはまり、その実を食べたのです。
果たして、人は「神のようになれた」でしょうか?

この後の二人は悲惨でした。3章7節「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。」ここでの「裸」は、肉体的な裸体というよりも、心の問題、魂の問題です。以前は全面的に神を信頼し、神に見られること、評価されることを畏れていなかったのに、実を食べたことで、自分が神に判断され、評価される存在であるという意識が芽生えました。ありのままの姿で神に受け入れられていると思えなくなったのです。
二人は神の前に堂々とたつことができなくなり、神の顔を避け、隠れたのです。

「神の顔を避け、神から隠れること」これが、罪を自覚したときの人間の姿です。
「神になろうとしたけれど、神になれなかった彼らにできることは、もはや神の前から隠れることだけでした。
しかし、神は二人をお見捨てにはなりませんでした。
神の方から「どこにいるのか」とアダムを呼びました。
神の言葉を軽んじ、蛇の言葉に騙され、そして自分自身の姿を自覚した二人でしたが、神はこの二人に、神の方から声をおかけになったのです。

創世記3章を読むと、結果はこうなっています。
二人の目は開けたと思ったが →神の前で 恥と恐れを知っただけだった。
神から自由になったと思ったが → 神から隠れなければならなくなった。
知恵を得たと思ったが → 神との関係は断絶し、霊的な死に支配された。
これが、人類の代表としてアダムとエバが犯した最初の罪の結果であり、神の恵みからの堕落でした。

しかし神は、ご自身の創造された人をお見捨てになりませんでした。
神の側から声をかけ、そして、救いのご計画、救いの道をお示しになります。
それが3章15節、源福音と言われる、神の救いの言葉。女の末から救い主を誕生させるというメッセージです。
3章15節「 お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。」

人は、自らの意思に従って行動し、神の前に大きな罪を犯しましたが、神は人をお見捨てにならず、人を取り戻す計画、救いの道を備えてくださったのです。
神の示された人への愛は、蛇の誘惑も、人の裏切りも罪も、すべてを包み込み、長い長い歴史を越えて、やがてキリストの十字架と復活によって、神の救いの御業として成就しました。
その長い歴史を記したのが、救いの歴史「救済史」です。
救済史には様々な人物が登場意、いろんな事件が起こりますが、一貫して示されているのは、神の愛、神が私たち人類に注がれた一方的な愛です。

そして今、同じ神の愛が、私たち一人ひとりにも注がれていることを覚えたいのです。
一か所聖書を読んで、祈ります。
ヨハネの手紙Ⅰ 4:10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。

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