2026年04月19日「復活はあるのか」
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復活はあるのか
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マルコによる福音書 12章18節~27節
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聖書の言葉
マルコによる福音書12章18-27節
12:18 復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスのところへ来て尋ねた。
12:19 「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。
12:20 ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。
12:21 次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。
12:22 こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。
12:23 復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」
12:24 イエスは言われた。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。
12:25 死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。
12:26 死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。
12:27 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 12章18節~27節
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説教要約 マルコ12章18-27節 「復活はあるのか」
「人は何のために生きるのか」そして「人は死んだあと、どうなるのか」これらのことは、私たちにとっては大きな謎の一つでしょう。ですが、多くの人は普段そんなことを考えずに生活しています。今日の話は「死んだ後のこと」、「復活」についての質問です。
話は、「復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエス様のところへ来て尋ねた。」(マルコ12:18)から始まります。
今日の話に登場するのは、サドカイ派です。
サドカイ派は神殿を中心とする祭司貴族層で、生活は恵まれていた。彼らの生活はエルサレム神殿に依存しており、信仰面では、死者の復活、魂の不滅、天使や霊的存在を信じません。現実主義的で、現在の恵みに安住し、死後のことは考えません。彼らの関心は現世へと向かいます。今の生活が豊かで安定していることが彼らの願いでした。これって、現代の多くの人々とよく似ていますよね。
そういうサドカイ派の人々がイエス様のもとにやってきて質問しました。
12:19 「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。
サドカイ派が信じているモーセ五書の中の申命記律法に、確かにそう書かれています。
申命記25:5-6です。この律法の意図は、家系を絶やさないようにする、ということです。
ユダヤ人は、家系を大切にします。家が次世代へと続くことは、神の祝福だと考えるからです。
ですが、ここでの彼らの質問は極端です。7人兄弟がいて、長男が結婚したが、長男は跡継ぎを残さないまま、死んでしまった。その女性は次男と結婚したが、次男も跡継ぎを残さないで死んだ。そんな風にして、この女性は7人兄弟全員の妻になったけれど、結局子供は授からず、跡継ぎを残せなかった。そして彼らがイエス様に尋ねたのは
12:23「復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。」(12:23)でした。ですが、彼らは「復活」を信じていないのです。ですから、この質問は真剣な質問ではなく、イエス様を困らせようとした質問だということが分かります。
しかし、彼らが変な質問をしてくれたおかげで、イエス様は復活について、いくつかのことを教えてくださいました。私たちには、大変に興味深い内容です。
イエス様の答えはこうでした。
12:24 イエスは言われた。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。イエス様は「聖書も神の力も知らない」とサドカイ派の人々に言いました。聖書についての正しい知識、理解がないということです。これについては、この後モーセの芝の話しから、正しい理解をお話になっています。
また、「神の力も知らない」とも言われました。
サドカイ派の人々は、死を命に変える神の力を信じません。現代の多くの人々も同じです。彼らは神の力を自分の理解できる範囲内に押しとどめ、それが現実と考えます。しかし、神は、私たちの知る現実以上の力を持つ存在です。私たちと同じなら、神ではありません。
神の存在と力を信じないのは不信仰ですが、神を信じていると言いつつ、神の力を自分の理解できる限界の中に閉じ込め、限界以上のことはこの世の原理に従おうとするなら、それも同じように不信仰です。
さらにイエス様は「死者の中から復活するときには」と言われ、「死者の復活」を肯定しておられます。「めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになる」は、今私たちには理解できませんが、復活後は新しい存在様式がある、ということでしょう。聖書が語らないことに、深入りすべきではありません。少なくともここでイエス様は、復活があることを断言しておられる、それで十分です。
イエス様はさらにサドカイ派の人々が信じているモーセ五書の中から引用して教えを続けておられます。
12:26死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。出エジプト記3章6節です。
神の言葉を注意して読むと「アブラハム、ヤコブ、イサクの神である。」と、現在形で語っています。モーセが地上で生きていた時、アブラハム、ヤコブ、イサクはとっくに死んでいましたが、神は「アブラハム、ヤコブ、イサクの神である。」と語り、地上ではない別の世界で、「アブラハム、ヤコブ、イサク」は今も生きていて、「わたしは今も生きているアブラハム、イサク、ヤコブの神である」と自己紹介しているのです。
だからイエス様は27節「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」と結論付けているのです。
これは、こういうことです。
一人の人が、地上で生きている間に、まことの神を信じ、神の民として死んだとします。
そうすると、その人は死んで地上にはいなくなりましたが、アブラハム、イサク、ヤコブが生きているところで、彼らと同じように、神と共に生きることになる。
イエス様はそういうことをここで教えてくれています。人の命は地上の死で終わりではありません。
ただし、これは旧約時代の話しで、イエス様の十字架と復活を経た今は、死後の命、死んだ後も神と共に、神の民として生きる道がもっとはっきり示されています。
それがイエス様の十字架による罪の赦しと、イエス様に結ばれて生きる希望、復活の命が与えられていること。信仰によってイエス様に結ばれて、地上の死を超えてさらに生きることができる者とされているという教えです。
ですが、キリスト教の復活信仰はここで終わりません。キリスト教信仰は、魂の不滅だけでなく、体の復活までを教えます。
イエス様ご自身が、十字架の死~葬り~の後に体をもって復活なさいました。当時復活のイエス様にお会いしたのは、11人の弟子だけでなく、もっと多くの人がいます。
復活の証人については、コリントの信徒への手紙Ⅰ15:3-8でパウロが語っています。
②一コリ15:3-8
15:3 最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、
15:4 葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、
15:5 ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。
15:6 次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。
15:7 次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、
15:8 そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。
さらにパウロはこんな風にも語っています。
ローマの信徒への手紙6章8-11節です。
③ローマ6:8-11
6:8 わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。
6:9 そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。
6:10 キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。
6:11 このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエス様に結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。
魂の不滅、やがての体の復活、この両方が聖書の教えている「復活」です。
今、この世で、キリストを信じ、信仰によってキリストに結ばれているなら、死後、魂はすぐにキリストのもとへ行き、又やがてキリストに結ばれた復活の希望がある。
そこまでが、聖書が教える「復活信仰」です。
それでも、私たちは地上生涯の「死」は避けて通れません。「死」は未知の体験ですから、たとえキリスト者であっても恐れや不安があるはずです。それで、キリスト者にとって「死ぬことの意味」を教えている信仰告白を見たいと思います。
<ハイデルベルク信仰問答 問42>
問42キリストがわたしたちのために死んでくださったのなら、どうしてわたしたちも死ななければならないのですか。
答 わたしたちの死は、自分の罪に対する償いなのではなく、むしろ罪の死滅であり、永遠の命への入り口なのです。
<ウェストミンスター小教理問答 問37、問38>
問37 信仰者は死のとき、キリストからどのような恩恵を受けますか。
答 信仰者の霊魂は、彼らの死のとき、完全に聖(きよ)くされ、直(ただ)ちに栄光に入り、信仰者の体(からだ)は、なおキリストに結びつけられたまま、復活まで墓の中で休みます。
問38 信仰者は復活のとき、キリストからどんな恩恵を受けますか。
答 復活のとき、信仰者は、栄光の内によみがえらせられ、裁きの日に、公(おおやけ)に承認され、無罪とされます。さらに、永久(えいきゅう)に、神を限りなく喜ぶことにおいて完全に祝福されます。
このように信仰告白を学ぶことは、私たちの信仰の励まし、そして力になります。