2026年04月12日「皇帝のものは皇帝に 神のものは神に」
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皇帝のものは皇帝に 神のものは神に
- 日付
- 説教
- 木村恭子 牧師
- 聖書
マルコによる福音書 12章13節~17節
聖書の言葉
マルコ12:13-17
12:13 さて、人々は、イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人を数人イエスのところに遣わした。
12:14 彼らは来て、イエスに言った。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」
12:15 イエスは、彼らの下心を見抜いて言われた。「なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい。」
12:16 彼らがそれを持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らが、「皇帝のものです」と言うと、
12:17 イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚き入った。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 12章13節~17節
メッセージ
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説教要約 マルコ12章13-17 「皇帝のものは皇帝に 神のものは神に」
ユダヤ教指導者たちは、何とかして、イエス様を排除しよう、もっとはっきり言うなら、殺そうと考えていました。イエス様が神殿から商人たちを追い出したり、神殿で民衆に教えたり、まるでご自身が神殿の主であるかのごとく振る舞われたからです。
それで、イエス様の命までも狙っていたのですが、なかなか良い機会がありませんでした。
「 さて、人々は、イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人を数人イエスのところに遣わした。」(12:13) のです。
当時、イスラエルは、ローマ帝国に支配されていました。と言っても、その支配は間接支配で、イスラエルの民がローマに税金を納め、また、ローマに対して反逆や暴動を起こさない限り、ローマ帝国は満足していました。実際の政治は、宗教も含めて、ユダヤ教指導者たちが行っていました。そういう背景の中で、今回はユダヤ教指導者の中のファリサイ派とヘロデ派の人がイエス様のもと遣わされたのです。彼らはイエス様のもとへやってきて言いました。
「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。」と。
彼らはこの言葉のとおりにイエス様のことを認めていたわけではありません。しかし、この言葉は、イエス様が彼らの質問に真実に向き合わなければならない状況を作りました。そうしておいて、質問をしたのです。「ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」
この質問は、当時の背景を考えると、とてもデリケートな質問でした。もし、イエス様が「ローマに税金を納めるのは、律法にかなわない。それは律法を破ることだ。」と答えれば、ローマに対する反逆。発言がローマに通報され、逮捕されて処刑となります。反対に「ローマに税金を納めるのは、律法にかなっている。」「正しいことだ」と答えたら、民衆の反感を買い、民衆によって命を狙われる危険があります。結局どう答えても、イエス様は無事では済まない、そういう仕組まれた質問だったのです。しかし、イエス様は、彼らの下心を見抜いておられました。
そして、デナリオン銀貨を持ってくるよう命じました。
彼らがそれを持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らが、「皇帝のものです」と言うと、イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚き入った。(12:16-17)
イエス様の答えは、皇帝の地位を貶めず、しかし神の権威も傷つけていない。ローマにとっても、ユダヤ人にとっても文句が言えない、そういう答えだったので、人々はイエス様の知恵深さに驚いて黙ってしまった。ということで、この場面は一件落着となりました。
ですが「皇帝の権威」と「神の権威」、「政治と信仰の問題」はいつの時代も単純ではありません。実際の生活において、「何が皇帝のもので 何が神のものか」線引きは難しい。というより、神はこの世のすべてを支配しておられる方ですから、当然皇帝の権威は、神の権威の下にあります。
そういうわけで、ここからは、この問いを私たちへの問いとして、信仰と政治の問題として考えてみたいのです。
クリスチャンの中には、「信仰は内面的なこと」と捉え、政治の問題は、俗世界の穢れた領域のこととして敬遠する人がいます。しかし、聖書は政治に消極的であるようにとは教えていません。むしろ、生活のすべての領域で神の栄光をあらわすことが期待されています。
もちろん、神を信じる信仰は、心の問題です。しかし「神を信じて生きる」とき、心の中だけでは済みません。神に従って生きる、生き方そのものが問われ、政治問題への対応も、除外されません。
第二次世界大戦前、私たちの信仰の先輩は、きちんとした意思表示をしないまま、戦争に巻き込まれ、大きな罪を犯しました。教会合同が行われ、韓国のキリスト者にまで皇室崇拝を押し付けることになりました。そういう過去の失敗を思う時、私たちも政治に無関心でいるわけにはいかないのです。聖書から、この世の権力に対しての教えを確認しましょう。
一つのことは、為政者、政治の指導者は神が立てている権威だ、ということです。神はこの世のすべてを支配しておられます。ですから、今現在立てられている政治指導者は、神が許して用いておられる、ということになります。聖書を二か所引用します。
一ペト 2:13-14 「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと、あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい。」
国を治め、政治を行う、そういう制度は、その国の人々が安全に生活するために立てられているものです。ですから、それに従いなさい!というのが聖書の教えです。
ローマ 13:7 「すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい」。
税金は、主に社会福祉や公共事業に用いるためのお金です。ですから、クリスチャンも税金を払う義務があります。ただし税金が本来の目的に沿って正しく使われているかどうか、これはしっかり見る必要があります。
また、聖書はこうも教えています。
一テモテ2:1-2 「そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。」
ここでは、為政者のために祈るよう命じられています。立てられた為政者が、まことの神を知っていても、知らなくても、神は彼らの上におられます。そして、わたしたちには、彼らが正しい政治を行うように、祈ることが求められています。
もう少し、キリスト者の政治への関り方について、考えたいと思います。
以前、改革派教会内の社会問題の委員会に属しておられた弁護士の木村庸五長老が、「キリスト者の使命」として語っておられた3つのことを紹介します。
預言者、祭司、王としての務めです。
①預言者として・・・見張りの務め。アンテナを張り、今何が起きているか、現実の情況を把握し、み言葉に照らして警告する使命。
②祭司として・・・為政者・政治、国のため、社会のため、隣人のため、隣国のため、執成しの祈りをする。
③王として・・・民主制のもと、王権の一部をゆだねられた国民としての責任を果たす。まずは、きちんと選挙に行って、意思表示をすることが第一歩です。
キリスト者には、社会に対して、政治的な事柄についても果たすべき責任があるのです。
しかしこの先があります。
上に立てられた権威が、為政者たちが、明らかに神のみ旨に反逆している場合があります。
為政者あるいは支配者層が、罪のゆえに、権力を悪用し、不正、不義を働き、弾圧や暴虐を起こす場合。あるいは不当な戦争を遂行するようなとき。そういうことが、歴史の中で実際に起こりましたし、今も起こっています。政治を行う者の暴走は、ブレーキをかける者がいないとエスカレートし、留めることができなくなります。
私たちだけでなく、多くの人は、今この世界が、戦争のない平和な社会であることを願っています。
そのために、まずは武力による争いを起こさないことが大切です。
また、起きてしまった武力衝突を、武力で抑え込んだとしても、その平和は一時的なものであり、長く残るのは憎しみであり、それが新たな憎しみとなります。その連鎖は、力で断ち切ることはできません。
イエス様は、弟子たちに、そして私たちにも、真の平和を作り出す道を教えておられます。
それは、「愛と祈り」です。
平和を作り出すために、最も有効な方法であるイエス・キリストの福音を心に留めたいと思うのです。
三つの御言葉を心に刻みましょう。
「隣人を自分のように愛しなさい。」(マルコ12:31)
「わたしは言っておく。敵:を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ 5:44)
「わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。」(ルカ 6:27)
「隣人を自分のように愛する」とは、「隣人の人権を尊重する」ということ。
これが平和の道であると、イエス様は私たちに教えておられます。武力衝突にも対抗でき、そして憎しみの連鎖を残さない、唯一の平和の道です。
また、この教えは、私たちの日常の人間関係における平和にとても大切ですので、心に刻みましょう。