2026年04月05日「「沈黙から始まる復活」」
問い合わせ
「沈黙から始まる復活」
- 日付
- 説教
- 木村恭子 牧師
- 聖書
マルコによる福音書 16章1節~8節
音声ファイル
礼拝説教を録音した音声ファイルを公開しています。
聖書の言葉
マルコ16:1-8
16:1 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。
16:2 そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。
16:3 彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。
16:4 ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。
16:5 墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。
16:6 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。
16:7 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」
16:8 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 16章1節~8節
メッセージ
関連する説教を探す
説教要約 イースター礼拝 マルコ16章1-8 「沈黙から始まる復活」
マルコによる福音書の終わりは16章8節です。9節以下は写本上の証拠から、2世紀になって追加された文章であることが確認されています。そういうわけで、本日の説教は、16章1-8節です。
「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」(マルコ16:8)これがマルコ福音書の最後の言葉です。この唐突な終わり方、この「恐れと沈黙」はいったい何を意味しているのでしょうか。今朝は、そこから考え始めたいと思います。
私たち人間の常識では、地上人生の最後は死と葬りで終わります。そしてイエス様も、彼女たちの目の前で、確かに死なれ、そして葬られたのです。それが彼女が目撃した事柄であり、理解している全てです。
しかし、この朝彼女たちが見たのは、空の墓。そして聞いたのは「あの方は復活なさって、ここにはおられない」という天使の言葉でした。
ですから、彼女たちの恐れと沈黙は、人の命は死で終わると思っていた世界が、根底から覆されたことへの正直な反応だったと思うのです。
1節から見ていきましょう。
週の初めの日の朝、真っ先に墓に向かったのは、十字架の死を最後まで見届けた3人の女性、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメでした。彼女たちは、遠くからではありましたが、それでも十字架上で苦しむイエス様から目を離すことなく、イエス様の苦しみに寄り添い続けました。そうして、イエス様の死と葬りを見届けた彼女たちは、安息日が終わったらイエス様の葬りをもう一度丁寧にしようと決めていました。十字架の上で苦しみ抜かれ、汗と血にまみれたイエス様の遺体をきれいに拭き上げ、油を塗るため、夜が明けると墓に向かったのです。
墓の前に置かれた大きな石をだれか転がしてくれるだろうかと心配しながら、墓へ急ぎました。彼女たちの行動のすべては、「イエス様は死なれたのだ」という認識に基づく行動でした。
墓に着くと、墓の前の石はわきに転がされており、彼女たちは墓の中に入ることができました。
しかしそこで見たのは、イエス様の遺体ではなく「白い長い衣を着た若者」、主の天使です。
天使は言いました。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。」(16:6)
彼女たちが墓へ向かったとき、その前提は「イエスの死」でした。イエス様は亡くなられ、イエス様の霊は天にお帰りになった、というのが、彼女たちの認識だったと思われます。それでも、今自分たちにできることは、イエス様の肉体を丁寧に葬むることだと考え、墓へと急いだのです。
しかし空の墓と天使の言葉によって、彼女たちの「イエス様は亡くなられた!!」という考えは崩れました。
「復活」は、人間の常識では簡単に受け入れることのできない事柄です。地上の生涯が死で終わらず、復活したという、現実離れした現実を前にして、彼女たちは言葉を発することができなかったのです。
彼女たちは、立ち止まって、今までのことを、最初から思いめぐらす必要がありました。
生前のイエス様の教え、イエス様のお言葉、そして今遭遇している現実について、信仰的に整理する必要がありました。
そのようにして、やっと、彼女たちは、イエス様が語っておられた通りのこと~人の子は殺され、三日の後に復活する~という言葉が実現したことを理解し、信じることができ、天使の言葉のとおりに行動することができるのです。
信仰とは、常に雄弁であることではありません。時に信仰は、言葉を失うほどの出来事に立ち会うことから始まります。
ではマルコ福音書は、「復活」という出来事を、なぜ、あえて恐れと沈黙の中に置いたのでしょうか。それは「復活」という事柄が、常識的な人間の理解や整理の中に収まる事柄ではなく、信仰の事柄としても簡単に受け入れられることでなはく、人間にとっては理解の限界を超えた事柄だからです。
復活は簡単に「分かった」と言える事柄ではありません。反対に、人に言葉を失わせ、立ち尽くさせ、沈黙へと追い込む力を持っています。
イエス様の復活という事実に向き合った女性たちの心の変化は、福音書の読者も同じようにたどるべき道として、「恐れと沈黙」、そしてその続きを読者に手渡しているのです。
「復活信仰」は、完成された物語として閉じられるのではなく、福音書を読む一人ひとりの人生の中で「続き」が生きられていく出来事なのです。
それでも彼女たちは、この後復活のキリストにお会いし、復活が確かな事実であることを確認することができました。一方で、今の私たちは、目に見える形で、復活のキリストにお会いすることはできません。
けれど、整えられた神の言葉である、聖書があります。4つの福音書には、イエス様の3度の死と復活の予告が記されており、その言葉のとおり復活されたこと。そして復活のイエス様にお会いした人々の証言が記されています。
パウロ書簡や新約聖書の様々な箇所で、キリストの死と復活の事実とその意味、それに続く私たちの復活についても記されています。私たちは、それらの言葉を通して、キリストの復活が私たちの復活とつながっていることを知ることができます。
その一つ一つの言葉を、私たちは自分の生活の中で、信仰の歩みの中で、整理して行くのです。
マルコは、マルコ福音書の読者である私たちに、「恐れと沈黙」の先をゆだねています。
マルコは問います。
あなたは、キリストの死と復活とどう向かい合いますか? キリストの死が私のためであり、キリストの復活は信じる者の先駆けとしての復活であることを信じますか?
キリストの復活の先に、永遠の命と私の復活があることを信じますか?と。
これらは、福音書の読者である、私たちに委ねられた、質問です。
そういう問いで終わっているのが、マルコ福音書16章8節なのです。
ところで、復活の理解以外にも、私たちの人生には、言葉を失う場面があります。
どうにもならない現実に押しつぶされて、祈れないとき。病や肉体の痛み、苦しみのため先が見えないとき。愛する人との離別や、生活の不安の中で信仰が揺さぶられ、希望を語れないとき。
深い沈黙に沈み込んでしまいそうなときがあります。
それでも、マルコ16:8は告げます。
その沈黙の場所こそ、復活の命が始まる場所だと。
神は、整った信仰告白の中でだけ働かれる方ではありません。
信仰の歩みに疲れ、恐れを抱き、沈黙し、立ち尽くす私たちをも、復活の命へと立たせてくださる方です。
復活の希望は、雄弁な信仰の告白からではなく、沈黙の奥底から与えられることもあるのです。
沈黙の中を生きた者が、やがてその歩みを通して、復活の証人とされるのですから、不思議です。
しかし、一人孤独に、沈黙の底に留まり続けてはなりません。
天使は言いました。
「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」(16:7)
信仰の仲間の所へもどって、キリストの復活、よき知らせを伝えるようにと天使は命じました。
信仰の仲間と共に、イエス様が待っておられる場所へ向かうようにと言いました。
天使はまた「ペトロに告げなさい」とも言いました。十字架直前、イエス様を3度知らないと言ったペトロ。そのペトロを配慮するように、という言葉でしょう。
どんなに立派な信仰者でも、リーダー格の弟子でも倒れることがあります。ですから、信仰の仲間、主にある兄弟姉妹は必要です。
主と共に、そして、共に支え合い、祈り合い、仕え合って、地上生涯の最後までの歩みを、共に歩んでいきましょう。
復活について語るパウロの言葉をお読みした後、祈ります。
一コリント15:20-22
15:20 しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。
15:21 死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。
15:22 つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。