2026年03月29日「百人隊長の告白」

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マルコ15:33-41
15:33 昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
15:34 三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
15:35 そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。
15:36 ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。
15:37 しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。
15:38 すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。
15:39 百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
15:40 また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。
15:41 この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 15章33節~41

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2026年3月29日 <説教要約> 受難週 マルコ15章33-41 「百人隊長の告白」

イエス様と弟子たち一行がエルサレムに入城されたとき、人々は大喜びで一行を迎えました。上着を道に敷き、「ホサナ、今救ってください」と叫んでイエス様を歓迎しました。
しかし、ユダの裏切りによって逮捕され、裁かれ、死刑判決を受けたとき、イエス様に味方する人はいませんでした。イエス様のおそば近くで仕えていた弟子たちも、イエス様の逮捕とともに、イエス様を見捨てて逃げ去りました。こうしてイエス様は、お一人で、十字架へと向かわれたのです。

人々はイエス様に背を向けましたが、イエス様と神との関係はどうだったのでしょうか?
イエス様は午前9時に十字架につけられ、その3時間後、昼の12時になると「全地は暗くなり、それが三時まで続いた。」とあります。昼間に太陽が隠れ、真っ暗になったその闇の中で、イエス様は
「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫びました。詩編22編2節の言葉です。果たして、イエス様は、この言葉通り十字架上で本当に神に捨てられたのでしょうか?
新約聖書にはこう記されています。2か所確認しましょう。
ローマ8:32「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」とあります。パウロの言葉ですが、パウロの理解によるなら、父なる神が、御子を死に渡した、死の中に放棄した、見捨てた、と言っています。
ガラテヤ3:13「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです。」ここでも、「キリストが神に呪われる者となった」とあります。
つまり、十字架上でのイエス様は、本当に、神から捨てられたのです。神に捨てられること、これが罪に対する神の裁きです。そして、本来ならこの裁きは、私たちが受けるべき裁きです。
それを、罪のないイエス様が、私たちに代わって下さり、罪の贖いを成し遂げてくださったのです。

しかし、マルコ福音書は、この暗闇の中で、ひとりの人物に光を当てています。それが、ローマ軍の将校である百人隊長です。彼は神の民と自認しているユダヤ人ではなく、異邦人。そして旧約聖書の預言や律法の知識も全くありません。
彼は、イエス様を十字架につける側、ユダヤ民族を支配し、処刑を執行する力を持つ側の人間です。
そして彼はこれまで数多くの処刑の場に立ち会い、多くの人間の死に際を見ていました。
憎しみを叫ぶ者、許しを乞う者、取り乱し無念の中で消え入る者。弱さを持つ、様々な人間の終わりを見ていました。しかし、イエス様の死は、それらの人々とは全く違っていました。  
十字架上のイエス様は、人々に嘲られても言葉を返さず、何の非もないのに自己弁護をせず、十字架から逃げようともしませんでした。十字架へと追いやった人々を呪う言葉も、現状への絶望の言葉も、一切口にしていません。そうして、ただ十字架の死を耐え忍ばれたのです。
後にパウロがフィリピ教会に宛てて記した言葉が思い浮かびます。
フィリピ2:6-7「 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」
百人隊長は、砕かれ、低くされたイエス様の姿に、まことの神を見て「本当に、この人は神の子だった」叫んだのです。
当時のローマ帝国において「神の子」とは、ただローマ皇帝を指す言葉でした。軍人である彼にとって、皇帝以外の者を「神の子」と呼ぶことは、自分の身を危険にさらすことでもあります。しかし、彼は言わずにはいられませんでした。「本当に、この人は神の子だった」と。
百人隊長は、キリストの教えを詳しく知っていたわけではありません。ただ十字架の主を「見上げた」ことで、「本当に、この人は神の子だった」という信仰へと招かれたのです。

実は、マルコ福音書において、この百人隊長の告白は重要な意味を持ちます。
マルコはこの福音書を記すにあたって、1:1でこう書いています。「神の子イエス・キリストの福音の初め。」と。
マルコは、「神の子イエス・キリストの福音」を記したのです。
ですが、福音書の中で、イエス様のことを「神の子」と理解し、そう告白したという記述は、悪霊の告白が2か所とこの百人隊長の告白だけ。12弟子でさえ「あなたは、メシアです。」と答えるのがやっとで「神の子です」とは告白していないのです。
マルコ福音書の中では、弟子たちはイエス様を「神の子」と理解できず、群衆は誤解し、宗教指導者は拒絶しました。
そして、イエス様の十字架を見上げた異邦人の百人隊長の口から、はじめて「神の子」と告白されたのです。ですから、マルコ福音書において、百人隊長の「本当に、この人は神の子だった」という告白は、大変重要な意味を持ちます。
しかも、この告白をしたのが異邦人であったということで、この先福音がどのように広がりを見せるかを予感させます。

百人隊長の言葉の後、40〜41節には、もう一つの対照的な光景が描かれています
イエス様の弟子で、ガリラヤからイエス様に従ってきた女性たちです。彼女たちは、遠くからではありますが、イエス様の十字架から逃げずにイエス様を見守っていました。恐れ、悲しみ、無力感に押しつぶされそうな女性たちでしたが、イエス様から目を背けることができなかったのです。イエス様の十字架の苦しみを、胸を痛めながら、しかし目を背けず、見守り続けたのです。後に、この女性たちが、イエス様の十字架の目撃者、そして証言者となったのです。ですが、それだけではありません。彼女たちはイエスの死、埋葬、空の墓の目撃証人であり、やがて彼女たちがその事実を証言する役割を担うことになります。本当に重要な役割です。

百人隊長は、キリストの教えを詳しく知っていたわけではありませんが、十字架の主を「見つめた」ことで、信仰へと導かれました。遠くから十字架を見守り続けた女性たちもまた、苦しみの中で主に従い続けた人々でした。

では今、私たちは十字架のどこに立っているのでしょうか。問われているのは、イエス・キリストの十字架をどう見ているかです。イエス様の死を自分へのメッセージとして、あるいは自分との関係で、受け止めているでしょうか。その十字架に、まことの神の子を見ているでしょうか。
イエス様は私たちの罪のために、神に見捨てられるという、深い深い闇を通り抜けてくださいました。
その愛を自分事として受け止めるとき、私たちもまた、この百人隊長と同じ告白へと導かれます。
「あなたこそ、神の御子、私の救い主です」と。

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