2026年03月15日「最後に遣わされた御子」
問い合わせ
最後に遣わされた御子
- 日付
- 説教
- 木村恭子 牧師
- 聖書
マルコによる福音書 12章1節~12節
音声ファイル
礼拝説教を録音した音声ファイルを公開しています。
聖書の言葉
マルコ12章1-12節
12:1 イエスは、たとえで彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。
12:2 収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。
12:3 だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した。
12:4 そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。
12:5 更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された。
12:6 まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。
12:7 農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』
12:8 そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった。
12:9 さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。
12:10 聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。
12:11 これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』」
12:12 彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。それで、イエスをその場に残して立ち去った。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 12章1節~12節
メッセージ
関連する説教を探す
2026年3月15日 説教要約 マルコ12:1-12「最後に遣わされた御子」
今日の箇所は「ぶどう園と農夫のたとえ」です。まず、たとえについてお話しします。
「ある人が」ぶどう園を作り、周囲に垣根をめぐらし、ぶどうの絞り場も作り、見張りのやぐらまで立てました。ぶどう園をきっちりと整えたうえで、主人はぶどう園を農夫たちに貸して旅に出ました。
ぶどう園には仕事がいろいろあります。畑を耕し石を除き、水を注ぎ、見張りをする。ぶどうを剪定し、肥料を与え、収穫したらそれを絞ってぶどう酒を作る。農夫たとはそんな風に働いていました。ぶどうの収穫時期になり、主人は収穫を受け取るため、農夫たちの所に僕を送りました。ところが、「農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した。」というのです。
「そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。」「更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された。」と、農夫の横暴ぶりは次第にエスカレートしています。それでも主人は忍耐強い人で、農夫たちが悔い改めるのを待っています。
そうしてついに、「わたしの息子なら敬ってくれるだろうと言って、最後に息子を送った。」というのですから、驚きです。主人は自分の愛する息子、跡取り息子をぶどう園に送ったのです。息子ですから、僕とは違います。主人同様の、あるいは主人に次いで権威があります。ですから、息子の権威を敬い、悔い改めて収穫をきちんと収めると考えたのでしょう。ところが、主人の予想に反して、「農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった。」となんとも驚くべき結末です。
このたとえ話はこういうことです。「ぶどう園の主人は父なる神様、農夫たちはユダヤ教指導者を頭とするイスラエルの人々、主人が遣わした僕は、洗礼者ヨハネを含む旧約預言者たち、愛する息子はもちろんイエス様のこと。
イスラエル民族は、特別に神に選ばれた民、神の恵みを受け、神に従って歩むことを期待されていた人々です。
しかし、彼らはたびたび神に逆らい、神に背を向け、神からの預言者を退け、あるいは殺しました。そして最後に、神はご自身の愛する息子イエス様を地上に送ったのです。しかし、その息子まで殺してしまった。(この時点ではまだ殺していませんが)
「ぶどう園と農夫の話し」として聞くと、普通では考えられないような話ですが、しかしこの話は、実際に起来ている現実のことだとわかります。
結びのイエス様の言葉はこうです。「さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」
この言葉は、神の国の祝福がユダヤ人から取り去られ、異邦人に与えられる、ということまで意図されています。
ここまで「たとえ」で話されたイエス様は、今度は聖書の言葉、詩編を引用して教えを続けます。
「 聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』」「家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった」は、詩編118編22節の引用です。
詩編118編は新約聖書にたびたび引用される詩編です。「隅の親石」とは、イスラエルで一般的だった石造りの建物の基礎の要となる石のこと。建物全体の重みやバランスを支える重要な石でそれがなければ、建物全体が倒れてしまうほど大切な石のことです。
「家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった」とは人からは捨てられ、侮られ、迫害されたけれども、神によって認められ、尊い役割を担わされた人の比喩になっています。このような人物として、この個所はダビデのことだと解釈されたり、来るべきメシアを指すと解釈されたりしました。新約聖書ではイエス・キリストを指す詩編、メシア詩編として重んじられています。
イエス様はこの後、人々に捨てられて、十字架へと追いやられ、十字架上で死なれました。人々の目には、価値のない者として扱われ、捨てられましたが、価値なき者ではありませんでした。
イエス様は、十字架を通して、罪ある私たちが神のもとへ戻る道を作りました。信じる者が、神と共に、神の恵みの中で、永遠に生きる道を通してくださったのです。ですから、イエスさまこそが「隅の親石」となった方です。
詩編118:22に続く23,24節は、「これは主の御業/わたしたちの目には驚くべきこと。今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。」です。
ですから、これは、驚くべき主の御業であり、永遠からの神の御計画なのです。
この話、イエス様の十字架以前のことですから、この時点では誰一人、話の全体を理解することはできなかったでしょう。しかし、少なくとも「自分こそが隅の親石であり、神から権威を授けられた御子である」というイエス様の主張は、ユダヤ教指導者たちに伝わったのでしょう。ですから、12節。「彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。それで、イエスをその場に残して立ち去った。」のです。
では、私たちはこの話しから何を読み取ればいいでしょうか。
①この個所から、ぶどう園の主人の忍耐、つまり神様の忍耐を読み取りたいと思います。
主人は、整えられたぶどう園で、農夫たちが日々の働きを忠実に行って幸いに歩むことを望んでいます。それが農夫たちにとって、幸いな歩みだからです。しかし農夫たちはそれを拒みました。主人はその農夫たちのために、僕を送りました。それも、一人や二人ではありません。けれど農夫たちは主人の心、主人の愛を理解しません。そして主人は、最終的に自分の最愛の息子を送ったのです。描かれているのは、忍耐深い主人の姿ですが、これは、私たちへの神の忍耐と愛です。神から離れている者、離れようとしている者に対する、神の熱意。彼らの命をとりもどそうという神の愛と熱心を覚えるとき、ただ感謝の思いに溢れます。
②拒む心がもたらす破れ
次に、農夫たちの「これは跡取りだ。さあ殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる」という言葉を考えてみましょう。農夫たちは自分の利益を守ることに必死でした。しかし結果は最悪です。整えられたぶどう園で働くことが、彼らにとって恵みだったのに、それを理解せず拒んだ農夫たち。彼らは、エデンの園を捨てたアダムとエバと同じです。神の御手、神の支配を離れ、神の恵み、神の招きを拒む時、その先にあるのは滅びへ向かう道です。
神の招きを拒むことは、自らの祝福を奪うだけでなく、神との関係、神の国の恵みを失うことになるからです。
そして神の国の恵みは、地上生涯だけでなくその先にまでかかわる事柄だということを覚えたいと思います。
③イエスこそ「隅の親石」
イエス様はこのあと、人々に拒まれ、十字架へと追いやられます。しかし、十字架の苦しみを経て、神の救いの中心となられました。イエス様を受け入れ、従う心を持つとき、私たちの人生も「捨てられた石が、隅の親石となる」ように、神の御手の中で新しく造り変えられていきます。イエス様を心の中心に据えるとき、私たちの人生は希望へと進み始めるのです。
12:11 これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』」
神の御計画、神の業は、人間の罪、人間の愚かさを越えて、進んできましたし、今も進んでいます。
キリストの十字架と復活を越え、終末の完成に向けて進み続けます。人間の罪や愚かさをも超えて。
そういう中で、まことの神との出会い、イエス・キリストの十字架を信じる信仰が与えられた歩みは、なんと幸いな歩みであることか。
詩編118:24 「今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。」