2026年03月01日「枯れたいちじくの木」
問い合わせ
枯れたいちじくの木
- 日付
- 説教
- 木村恭子 牧師
- 聖書
マルコによる福音書 11章20節~25節
音声ファイル
礼拝説教を録音した音声ファイルを公開しています。
聖書の言葉
11:20 翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た。
11:21 そこで、ペトロは思い出してイエスに言った。「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」
11:22 そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。
11:23 はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。
11:24 だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。
11:25 また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 11章20節~25節
メッセージ
関連する説教を探す
2026年3月1日 説教要約 マルコ11:12-14 20-25「枯れたいちじくの木」
先週は救済史説教で創世記を扱いましたが、その前の週、15日の礼拝でイエス様が神殿で大暴れして商人たちを追い出した箇所、いわゆる「宮清め」の所を扱いました。今朝は、「宮清め」の前後に記されている「いちじくの木の話し」です。
細かい内容に入る前に、この個所の構造についてお話ししておきます。
マルコ福音書では、イエス様の「宮清め」の話しの前後に「いちじくの木の話し」があります。
11:12–14の「見かけは立派だけど実のないいちじくの話し」があり、イエス様はいいちじくの木に向かって「今から後いつまでも、おまえから実を食べる者がないように」と呪いの言葉を告げています。
11:15–19は「宮清め」の話。ここでは、形式だけで中身が伴わない神殿礼拝に対する神の怒りが示され、11:20–21では、一夜のうちに枯れてしまったいちじくの話がある。つまり、いちじくの話によって、神の裁きが象徴的に示されています。そしてその後11:22–25で、この一連の出来事へのイエス様の教えが記されています。
当時のイスラエルの人々の霊的状況を示し、そういう中で、弟子たちが信仰をもって歩むためにイエス様が教えておられるのです。私たちも、ここから聞くべきこと、学ぶべきことがあります。
11:12‐14
イエス様は「空腹を覚えられた。」とあります。すると、遠くに立派ないちじくの木を見つけました。そして実がなっていることを期待して近寄られたのです。立派な葉が茂っているいちじくの木ですから、期待してそばに行ったけれど、小さな実もなっていません。11:14 イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。
11:15-18 宮清め
そして先ほどもお話しした通り、この後「宮きよめ」の記事が続きます。ここでのイエス様の怒りは、神の名が踏みにじられることへの「憤り」です。神の家、そして祈りの家であるべき神殿で、商売がなされ、異邦人が排除され、祭司の腐敗が横行している状況。これが当時のイスラエルの霊的状態でした。
11:20‐21
そして、20-21節に、枯れたいちじくの話が記されています。「宮きよめ」の翌朝早く、一行は昨日のいちじくの木のそばを通りました。すると昨日まで、青々と葉が茂っていたいちじくの木が、一夜のうちに根元から枯れていたのです。弟子たちは、イエス様の力、言葉の力に驚いたことでしょう。ですが、ここはそのことが中心ではありません。この出来事はイスラエルの民に対して終末の裁きがあることを示したイエス様の象徴的なパフォーマンスです。
葉があるが実のない、いちじくは、外見は立派で期待を抱かせるけれど、実は中身のない状態。これは当時のイスラエルの民の霊的な状態を指しています。
立派な神殿があり、動物の犠牲がささげられ、多くの人々が集い、祈りを献げている。一見、信仰深い宗教行為のようですが、実は彼らの心には、神が求める実がない、信仰と真実の祈りがない。
イエス様はここでそのことを示そうとしておられるのです。また、同時にこれは、終末の裁きを示すパフォーマンスでもあります。実をつけていない、いいちじくの木、信仰の無い人々が集うエルサレム神殿。
裁くのは主なる神ですが、同時に贖いと赦しをお与えになるのもイエス様ご自身です。
11:22-25
イエス様は、いちじくの木を枯らし、宮清めをなさって、終末の裁きをお示しになりました。
しかし、22節以下で、裁きからの回復の道を教えています。
ここでの教えは、三つです。
①「神を信じなさい。」
まず「神を信じなさい」と言われます。神を信じること、これが信仰の歩みの大前提です。信じなければ、祈りは無意味だし、罪の赦しも期待できません。
ですが、信仰とは何でしょうか。神を信じるとはどういうことでしょうか。
イエス様は 「はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。」(23節)と言われます。
しかし、私たちは自分の信仰が頼りないことを知っています。本来、私たちの信仰は空の器なのです。ところが、実はそうではない。ここで「信じるならば、そのとおりになる」と教えられているように、信仰には神の力が伴うのです。私たちに信仰を与え、満たしてくださるのは神です。神が私の空っぽの、頼りない信仰の器に力を与え、満たしてくださるのです。ですから、私たちが神を信じるとき、共におられる神の力が私の現実となり、神の永遠が私のものとなるのです。
②11:24「祈り求めるものはすべて得られたと信じなさい」
信仰をもって祈るなら、必ず神は答えてくださいます。
ところが、私たちは祈る前に祈るべきことを考え、祈るべきことを選びます。祈る前に、これは祈っても聞かれないはず。現実は変わらないだろうと考えて、祈りを手控えてしまうことはないでしょうか。
しかし私と共にいて、私の信仰を満たしてくださる神が、私の祈りを導いてくださり、私の祈りのゆくえと結果にも責任を持ってくださるのですから、私には不可能と思うことでも、もっと祈っていいのではないかと改めて思わされます。
祈りとは、私が今見ている狭い現実から一歩踏み出すこと。祈りを通して一歩踏み出した先が私の現実となる。祈りとはそのような営みではないかと、気付かされてます。
③最後の25節。「また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」は、赦しについての教えです。ここでは罪赦されたものとして、人の罪を赦す愛をもつことが求められています。ですが、私たちが人の罪を赦すから、神もわたしたちの罪を赦してくださるのではありません。順序は逆です。
私たちには、主イエスの十字架の贖いによって、罪の赦しが与えられています。罪赦され、神に愛されていることを信じるのが私たちの信仰です。それがなければ、どんなに頑張ったって、心から隣人を愛し、隣人の罪を赦すことなどできません。神が私たちに目を留め、私たちを愛してくださり、キリストの贖いを信じる信仰をあたえてくださったのです。
今日の箇所、特に22-25節は、裁きからの回復の道が教えられています。信じること、祈ること、赦すこと(隣人を愛すること)。これが、神の国に加えられる道ですが三つとも、神が一方的に与えてくださる恵みでもあります。神の御業に期待して、天国を目指す歩みを共に歩んでいきましょう。