2026年02月15日「大暴れするイエス」

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マルコ11章15‐19節
11:15 それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。
11:16 また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。
11:17 そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった。」
11:18 祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである。
11:19 夕方になると、イエスは弟子たちと都の外に出て行かれた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 11章15節~19節

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2026年2月15日説教要約 マルコ11:15-19 神殿で大暴れするイエス

イエス様がエルサレムに入城されたとき、群衆は「ホサナ、主の名によって来られる方に祝福があるように」(マルコ11:9)と叫び、王として迎えました。しかしイエス様ご自身は、そこで待ち受ける苦難を知りつつ、静かにエルサレムへ向かわれました。到着して最初に向かわれたのは「神殿」でした。少年時代、イエス様は神殿を「わたしの父の家」(ルカ2:49)と呼ばれました。その神殿の様子をご覧になり、深い思いを抱かれたものの、その日は何もせずベタニアに行かれました。
べタニアは、エルサレムの南東約3キロの所にある村で、オリーブ山の東側のふもとにありました。イエス様はこの村をよく訪ね、またエルサレムに滞在するときには、ここからエルサレムへ通われたようです。

翌朝、イエス様は再び神殿へ向かわれました。過越祭を控え、神殿は世界中から来た巡礼者であふれ、境内には神殿礼拝に必要な犠牲の動物(牛、羊、鳩)を売る商人や両替商が並んでいました。遠方から来る人々は、神殿の近くで犠牲の動物を購入するからです。また、両替商も必要でした。というのは、神殿で通用する貨幣は特定の銀貨(ティルス銀貨)と決まっていたのです。ですから、商人や両替商は、神殿礼拝を支えるために必要な存在だったのです。
ところが、実際には暴利が横行し、祭司たちも賄賂を受け取っていました。特に大祭司アンナス家の腐敗は深刻で、神殿は礼拝の場ではなく利権の中心となっていたのです。
さらに商売が行われていた場所は「異邦人の庭」で、本来は外国人改宗者が祈るための場所でした。神は「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」(イザヤ56:7)と言われましたが、その祈りの場が商売で占領されていたのです。

この状況を見たイエス様は、激しい怒りを示されました。「イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された」(マルコ11:15)。ヨハネ福音書では、イエス様が縄で鞭を作り、牛や羊を追い出し、両替人の金をまき散らす姿が描かれています(ヨハネ2:14–16)。
これは単なる怒りではなく、神の名が踏みにじられることへの「聖なる憤り」でした。
神殿の目的の喪失、弱者の搾取、異邦人の排除、祭司の腐敗――これらすべてに対して、イエス様は預言者として、また神の子として神殿を清められたのです。
しかしこの行動は宗教指導者たちの反感を買い、「祭司長たちや律法学者たちは…イエスをどのようにして殺そうかと謀った」(マルコ11:18)と記されています。

さらに、イエス様の行動にはもう一つの深い意味がありました。それは、イエス様の十字架と復活によって、動物の犠牲を捧げる神殿礼拝が終わりを迎えるという象徴的なメッセージです。イエス様ご自身が「神の小羊」(ヨハネ1:29)として十字架にかかることにより、罪の赦しは一度で完全に成し遂げられます。もはや神殿で犠牲を捧げる必要はなくなり、神の臨在は建物ではなく、信じる者の内に宿るようになります。
イエス様は、「聖霊があなた方と共におり、これからもあなたがたの内にいる」と約束しています。(ヨハネ14:17)。どこででも神を見上げ、礼拝を捧げることができるということです。

それでは、わたしたちは、どのように神を礼拝しましょうか?
もちろん、教会で主にある兄弟姉妹と共に神を見上げる礼拝が礼拝生活の中心です。互いに支え励まし合って、神を礼拝し、仕えていくことができるのは幸いなこと、恵みです。
しかし、それがいつでもできるとは限りません。高齢になって、あるいは病気やけがで、礼拝の場に来ることが難しくなることもあるでしょう。それでも今の時代、インターネットを用いて、礼拝に加えられることができます。しかし、それもかなわない場合もあります。それでも、私一人の礼拝だとしても、私自身が神の宮であり、私の内に聖霊が宿っておられるなら、礼拝は成立します。私だけの、一人の礼拝であっても、主ご自身がその礼拝を完成させてくださいます。どこにいても、たった一人でも、私たちは神を見上げて礼拝を捧げることができるし、それを神は受け入れてくださるということです。

イエス様は「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(ヨハネ4:24)と教えられました。これは、聖霊に導かれ、キリストと結ばれ、心から神を礼拝することを意味します。私たち自身が神の宮であり(Ⅰコリント3:16)、どこにいても神を礼拝できるのです。

私たちがささげる礼拝が、「霊と真理をもって」神に向けられた真実な礼拝なら、それこそがイエス様が求めておられる礼拝です。
今朝の礼拝がそのような礼拝であることを願っています。

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