2020年10月03日「聞くことから始めよう」

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聞くことから始めよう

日付
説教
木村恭子 牧師
聖書
使徒言行録 4章1節~4節

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ペトロとヨハネが民衆に話をしていると、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々が近づいて来た。二人が民衆に教え、イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えているので、彼らはいらだち、二人を捕らえて翌日まで牢に入れた。既に日暮れだったからである。しかし、二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数が五千人ほどになった。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
使徒言行録 4章1節~4節

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<説教要約> 使徒言行録4章1-4節「聞くことから始めよう」

今日は9/20の礼拝で扱った箇所と同じ使徒言行録4章1~4節を扱いますが、中心は4節です。
使徒言行録4章4節「しかし、二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数が五千人ほどになった。」
ペトロの説教を聞いて、5千人の男がキリストの死と復活、そしてその意味を信じたのです。男だけで5千人というのですから、女性を加えればもっと多かったはずです。彼らは、ペトロとヨハネに対するユダヤ教指導者たちの横暴な対応、そして二人の逮捕にもかかわらず、ペトロが語った福音を信じたのですから驚きです。また、ペンテコステの時にも、「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。」(使徒2:41) と報告されています。

ではなぜ、こんな風に、こんな勢いで、信じる者が起こされて教会が成長していったのでしょうか?もちろん、教会が形成されていく最初期の特別なときですから、今の時代とは違う特別な聖霊の働きがありました。ペンテコステの出来事のように、聖霊が降るのが分かるというようなことが実際に起こったのです。しかし、何も知らない人が突然、奇跡のように、キリストを信じたわけではありません。
今日の箇所でも、ペンテコステの時にも、ペトロが語ったキリストの福音を聞いて多くの人が信じたのです。福音を聞き、理解し、信じる。キリスト教信仰には、昔も今もこの手順が必要です。
ですが、福音を聞いた人全員が信仰へと導かれる、ということでもありません。この時も、ペトロの話を聞いた人全員が信じたわけではないと思います。そこには神のみ旨に従って信仰へと導く、聖霊の働きがあるのです。福音が語られ、それを聞いて理解する。その過程で聖霊の働きがあり、ある人は信仰へと導かれる。これは今の時代も全く同じです。

今の時代のことを考えるなら、ある人が何かのきっかけでキリスト教に触れたとしましょう。きっかけは映画であったり、キリスト教音楽であったり、インターネットで語られる説教であったり、家族や友人の誘いであったり、いろいろです。そしてキリスト教への関心が与えられたとしても、それだけで信じることはできません。きちんと福音を聞くことが必要です。神の言葉、福音が語られてそれを聞くこと。その中心は教会の礼拝で語られる説教、聖書の解き明かしです。
使徒言行録のこの箇所では、それがペトロの説教だったわけです。
また同時に、聖霊の働きがあます。これも昔も今も変わりありません。しかし今の時代は、ペンテコステの時のように、目に見える形で、あるいは耳で聞こえる形で、聖霊が降るわけではありません。聖霊は、見えない形で私たちの心に働きかけ、語りかけて、本人が気づかないうちに少しずつ心が変えられていくのです。
パウロもコリントの信徒への手紙Ⅰ15:3-5でこのように記しています。
「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。」(Ⅰコリント15:3-5)
パウロはこの福音を「わたしも受けた」と語っています。彼は福音を、イエスの死と復活の目撃証人である弟子たちから伝えられ教えられたのです。あるいはパウロは復活の主にお会いしていますから、その時に教えられたのかもしれません。そうしてパウロは信じたのです。福音を信じるために、神のことばが語られ(示され)、それを聞くことで、パウロは、キリスト教を迫害する立場から、命がけでキリスト教を伝道する立場へと、180度方向転換しました。
これは、神のみ言葉、聖書のことばには、人の心を変える力、信仰を与える力、そして人生を変える力があるということです。

今までお話ししてきたように、み言葉が語られそれを聞かなければ、キリスト教信仰は生まれませんから、キリスト教を理解しようと思ったら、福音が語られている場に身を置くことが必要です。ですが、使徒言行録の時のようにペトロの説教を一度聞いただけで信じるのは難しいでしょう。なぜなら、当時のユダヤ人たちは、旧約聖書を通して真の神、唯一の神への理解と信仰があったからです。彼らは、旧約聖書が教えているメシヤがイエス・キリストだ、ということを信じることでキリスト教徒になれたのです。
一方で、現代の私たちは旧約聖書の神、真の神のことをほとんど知りませんから、普通であれば一度教会の礼拝で説教を聞いて信仰を持つというのは難しいかもしれません。しかし聖霊は、一人一人に合った形で信仰へと導いてくださいます。ですから、主の日の礼拝に続けて出席し、そこでみ言葉の解き明かしを聞き続けてください。最初は語られる内容がほとんどわからなくても、少しずつ分かるようになっていきます。また教会では求道者会、聖書を読む会、洗礼準備会などを適宜行いますので、ご希望があれば牧師に申し出てください。今川越教会では、水曜日の午前中10時から11時に、聖書を読む会を続けています。

既に信仰を持っておられる方々にお伝えしたいことは、信仰を伝えようと思ったら、その方をみ言葉が語られる場へと招いてください、ということです。私たちは、家族や友人を教会に誘う時に、聖書の話を聞いて、彼らにわかるだろうか? ましてや「復活など信じられるだろうか」と心配になります。しかし、皆様はどのようにして信仰を持ちましたか? それを考えるなら、もっと聖霊の働きに信頼すべきと思います。ですから、先々のことまで心配しないで、勇気をもって、家族や知人を教会に、あるいは福音が語られる場にお誘いしましょう。

また、何回か聖書の話を聞いても、なかなか理解できない。まして信じられない、という方がいらっしゃるかもしれません。しかしそれでも忍耐して、礼拝に出席し、み言葉の解き明かしを聞き続けてください。聖霊が必ず、理解を与え、福音を心に届けてくださり、信仰へと導いてくださいます。
しかし「聖書を理解する」という言い方には注意が必要です。と言いますのも、キリスト教信仰にとって、聖書を最初から終わりまで理解することは必ずしも必要ではないからです。というより実際それは不可能に近いことだと思います。神学を学んだ牧師であっても、聖書にはわかりにくいところ、わからないこともあります。実際、牧師が礼拝で説教するためにどれほど準備をしていることか。
言いたいことは、信仰を持つには聖書を最初から終わりまで理解することは必要ではないということ。信仰についての中心的なことを理解し、受け入れ信じればいいのです。それがスタートです。ですが、終わりではありません。キリスト者は一生涯聖書を学び続けるのです。個人で聖書を読み、毎週の礼拝でみ言葉の取次ぎを受け、祈祷会やいろんな機会に聖書を学び続けます。そうする中で、神への理解が深まり、神がどれほど私たちを大切にしておられるかが分かってきます。そのようにして少しずつ信仰が養われていくのです。神は聖書を通して、み言葉を通して、ご自身を示してくださり、私たちに近づいてくださるからです。
ローマの信徒への手紙10章14節と17節に、パウロはこのように記しています。
「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。」(ローマ10:14)
「 実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマ10:17)

長く信仰生活を続けている方々にとっても、礼拝と礼拝で語られるみ言葉の解き明かしは重要です。神は、主日の礼拝で私たちに出会ってくださり、語られるみ言葉を通して、一人一人に語りかけ、養ってくださるからです。 
ある信仰の先輩が、私にこんなことを話してくださいました。その方は毎週礼拝の中で落穂拾いをするそうです。今朝、私の前に神が落とされる落穂は何だろうかと、それを拾うのを楽しみに説教を聞くそうです。
ミレーという画家の「落穂ひろい」という絵をご存知でしょうか? 三人の婦人が畑に落ちた麦の穂を拾っている絵ですね。農村のゆったりとした情景に心癒されます。ですが、この絵は旧約聖書に背景があります。旧約聖書のレビ記は神の律法が事細かに記されているのですが、その中でこのように命じられているのです。「畑から穀物を刈り取るときは、その畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。貧しい者や寄留者のために残しておきなさい。わたしはあなたたちの神、主である。」(レビ23:22) ここでは、神が貧しい者や寄留者のために、穀物の穂を残しておくよう命じています。貧しい者たちにとって、落穂は命の糧、生きる糧だったのです。これと同じように、その方にとっては、毎週語られるみ言葉が生きるための命の糧なのです。
ですから、説教者は、聞く方々に命の糧をお届けできるように心を込めて説教準備をしなければならないと思っています。
また、聞く方々は、語られる説教を通して神が自分に与えてくださった落穂、命の糧を拾い集め、それらをしっかりつかんで、新しい週へと歩みを進めていただきたいと願います。

6.祈祷
神よ、今朝も私たちに命の糧であるみ言葉が与えられたことを感謝します。
み言葉と共に聖霊が働いてくださり、私たちの心に届けてくださることを感謝します。
どうか、私たちが今朝あなたから与えられた落穂をしっかりつかんで、そして新しい週の歩みを進めることができるようにしてください。

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