2026年01月11日「どっちが偉い?」

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10:35 ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」
10:36 イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、
10:37 二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」
10:38 イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」
10:39 彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。
10:40 しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」
10:41 ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。
10:42 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。
10:43 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、
10:44 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。
10:45 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 10章35節~45節

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2026年1月11日説教要約  マルコ10章35-45 どっちが偉い?

本日からマルコによる福音書に戻ります。
マタイ、マルコ、ルカ、共観福音書によれば、イエス様はご自身の死と復活の予告を3回なさったと記されています。その3回を、マルコ福音書でもう一度確認しましょう。
最初の予告は8章31節以下。イエス様が、同胞である長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺されること。そして3日目の復活が語られました。
弟子たちは「排斥されて殺される」という言葉に思いが集中し、とりわけ、ペトロはその言葉に反発しました。「そんなことがあってはなりません」と。しかし反対にイエス様に、厳しい言葉で叱られたのです。
ここではイエス様の「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」という言葉、さらに34節の「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」に注目したいと思います。
二度目の予告は9章30-32節。前回の予告から、そう日がたっていませんから、弟子たちは前回のことを思い出したはず。イエス様が再び予告されたことで、弟子たちは、ついにイエス様が支配者、王として立たれるときが近づいた、と感じたのです。そして直後に弟子たちがしたのは、「誰が一番偉いか」という言い争いでした。そこでイエス様が教えられたことは、
マルコ9:35b「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」
ここでは、人の上に立つものよりも、すべての人に仕える者になれ!と教えておられるのです。
三度目の予告はさらに具体的でした。
イエス様は、「今、エルサレムへ上っていく」と言われ、エルサレムで自分の身に起こることとして「祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。」そして「彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。」「異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。」と、具体的に、受難の予告をなさったのです。
1回、2回目の予告以上に具体的な予告、それが差し迫っていることとして語られたあと、起こったことが今日の箇所、35節以下です。

ゼベダイの息子であるヤコブとヨハネが、イエス様の右と左の地位、つまり弟子たちの中で一番と二番の地位を願ったのです。この期に及んでなお、弟子たちの心は「神のことを思わず、人間のこと」、自分たちのことを思っています。彼らは他の弟子より上の地位に就くことだけを考えていたのです。
マルコ 10:37 二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」彼らは、イエス様が優れた指導者であり、神の権威と力を持っておられることを信じていました。ですが、その力の用い方を人間的にしか考えらません。地上の王のように権威の座に着いて、人々のために良い政治をなさるはず。その時自分たちもイエス様と共に働くとしたら、イエス様に近い権威の座にいたいと願ったのです。
この言葉を聞いてイエス様は二人に言いました。
10:38「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」
イエス様が「飲む杯、受ける洗礼」とは、この後イエス様が歩まれる十字架への道。そして「神の怒りの中で完全に見捨てられ、死ぬ」ということです。
しかし、ヤコブとヨハネは、問われたことの意味を深く考えることなく、なんの覚悟もなく「できます」と答えています。イエス様は二人の「できます」という答えを否定なさいませんでした。それどころか、「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。」といわれたのです。
ヤコブは後にイエス様と同じように苦難の杯を飲み、殉教の死を遂げました。使徒言行録12:2に記されています。一方ヨハネの最後は聖書に記されていませんが、かれは12人の中で一番長寿でしたが、その間様々な迫害に会い、パトモス等に流刑されたこともあり、やはりイエス様が飲む杯を飲み、イエス様が受ける洗礼を受けたのです。
ですから、この場でイエス様は、二人の願いを退けるでもなく、否定するでもなく、ただ「わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。」と言われました。神の国のこと、死後に関することは、人が知るべきことではないし、知る必要もないということでもあります。

ところが、他の10人の弟子たちは、このことを知って「腹を立て始め」ました。権威の座をねらっての内輪もめです。
そこでイエスさまは弟子たちを呼び寄せて、大切なことをお教えになります。それが42-44節です。
まず42節。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。」
異邦人とは、まことの神を知らず、信じていない人々のこと。そして、彼らの間では「支配者とみなされている人々」が民を支配し、権力をふるっている。この支配者は真の支配者ではなく、支配者とみなされているだけだ、という皮肉が混じった言葉です。まことの神を信じていない人々の間では、力で弱い者、下の者を押さえつけて支配するのです。
10:43-44「 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」
神の国の支配はそうではない。神の国の支配の原理は、力で弱い者を支配するのではなく、その逆。
「偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」
上に立つ者より、仕える者が偉い。これこそが神の国での支配の原理であり、本当の偉さなのです。

多くの人は仕えるより、仕えられることを求めます。人の上に立って支配することが成功者と考えられています。でも、本当にそうでしょうか?
ドナルド・ドランプは成功者でしょうか? イスラエルの首相であるベニヤミン・ネタニヤフは偉い政治家ですか? 力の支配で隣人の命を奪う政治家が偉いと思う人がどれだけいるでしょうか。
イエス様は、はっきり、そうであってはならないと言われます。
神の国の原理は、世の中の原理とは逆で、上に立つ者は、仕える者であるべきなのです。
イエス様が言われる意味で「仕える」とは、意識的に、あるいは何らかの計算があってここは「仕えておこう」というようなことはありません。仕えることで、そこから自分が受けるメリットや、自己満足などを計算した奉仕であってはならないのです。多くの場合、仕えること、奉仕は自分が損をしたり、被害を受けたり、消耗することのほうが多いものです。しかしイエス様は、そういう奉仕、仕え方をご自身なさったし、同時に弟子たちにも、私たちにも、そういう奉仕を求めておられます。

マルコ10:45「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」イエス様は人間に仕えるため、命を献げた神の国の王なのです。フィリ2:7-8を確認してください。
神の国の王であるイエス様ご自身が「仕える」お手本を示され、弟子たちも、その御跡に従うよう求めておられるのです。

神の国の偉さとは、隣人に仕えることを通して、イエス・キリストに似たものとなることです。
イエス様は「自分を無にして、僕の身分になり、へりくだって、十字架の死に至るまで従順に」歩まれました。
イエス様のへりくだりによって救われた私たちは、この世の偉さの原理を生きてはなりません。
また、この世の偉さの原理を教会に、地上の神の国に持ち込んではなりません。
高ぶらず、神に愛されている者として、神と隣人を愛して生きる歩み、イエス様のように、隣人に仕える歩みを選び取る努力と知恵を求めつつ、今年も共に歩んでいきましょう。

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