すべての人との平和
- 日付
- 説教
- 木村恭子 牧師
- 聖書 ヘブライ人への手紙 12章12節~15節
ヘブライ12:12-15
12:12 だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。
12:13 また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。
◆キリスト者にふさわしい生活の勧告
12:14 すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。
12:15 神の恵みから除かれることのないように、また、苦い根が現れてあなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚れることのないように、気をつけなさい。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヘブライ人への手紙 12章12節~15節
2026年1月4日説教要約 ヘブライ12:12-17「全ての人との平和」
新年おめでとうございます。今年も、共に神を見上げて、祈りつつ、歩んでいきましょう。
今朝は、先週に続いてもう一回、ヘブライ人への手紙から説教します。
まず、12節「だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。」
手が萎えて力が入らない。膝が弱ってまっすぐ立てない。ケガや病気のため、脳梗塞などの後遺症のため、あるいは高齢のゆえに、手が動かしにくくなったり、体に力が入らなくて、まっすぐに立てないという状況はあり得ます。手足に力を込めて、まっすぐ立ちたいと思ってもそうできないのです。ここは、実際の体の状態のことではなく、心の在り方、信仰の姿勢について語られています。たとえ手足に力が入らない状態であったとしても、まっすぐ神を見上げ、神に近づく歩み、信仰の歩みをしっかりと続けなさい!という励ましです。
その時、どのようにして神に従い、神に仕えるのか。年齢や体の状況によって、大きく変わってきます。年齢を重ねるにつれて、だんだん元気に仕えるのが難しくなる。実際できないことが増えてきます。
しかし、それでもなお、一人一人にはやるべきことがあります。今日、地上の命が与えられているということは、今日やるべきこと、できることがあるのです。それぞれに与えられた務めを考えてみてください。
昨年の秋、私が教会学校のときにお世話になった方が、天国に旅立ったのですが。
その方の葬儀のとき、しばらく教会の礼拝から離れている何人かの方とお会いしました。
後で知ったのですが、彼女は自分が旅立った後、葬儀の連絡をして欲しい人のリストを作っていたそうです。そのリストに、しばらく教会から離れている友の名も記されていたようです。
自分の葬儀を、そういう方々も共に集う礼拝にして欲しいという彼女の願いだったのでしょう。
同時に、彼女は神様から離れている友のことを覚えて、ずっと祈ってきたのだということも想像できました。
そして13節「また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。」ここは、いくつかの翻訳と比べると、あまり良い翻訳ではないと考えます。
「まっすぐな道を歩きなさい」よりも「まっすぐな道を造りなさい。」の方がいい。
「まっすぐな道を造るように」と命じられていると考えます。これを前節との関係で考えるなら、神からの鍛錬を避けながら、右往左往して進むのではなく、神からの鍛錬をまっすぐ受け止めて「(まっすぐな道を歩むことで)まっすぐな造れ」というように読む。このまっすぐな道は、もちろん自分の益となるのですが、それだけでなく「足の不自由な人」のためにもなる。
与えられた神からの鍛錬、試練を正面から受け止めて進むことは、もちろん自分の益になるわけですが、同時に、その姿が、弱っていたり、苦しんでいたりする方々への励ましになり、その方々の益にもなる。
ここは、信仰生活は孤独なレースではなく、主にある兄弟姉妹が互いに助け合い、支え合って走り通すのだという勧めとして読む。この教えはヘブライ人への手紙の別の箇所でも教えられています。
例えば、ヘブライ10:24-25「互いに愛と善行に励むように心がけ、ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。」とあります。あるいはヘブライ13:1-3でも同じような教えがあります。
昨年もお話ししましたが、私は、毎年1月2、3日に行われる、箱根駅伝を楽しみにしています。駅伝は、個人競技ではありません。タスキをつないでゴールを目指す競技です。実際に走るのは往路復路両方で10名ですが、補欠6人も発表されます。しかし、その背後にはもっと大勢の部員がいて、それぞれがいろんな役割を果たします。そういう中で、当日走る選手が決まり、一人一人が自分に定められている競走を忍耐強く走り抜くことで初めてタスキがつながって、ゴールテープが切れるのです。
選手たちのインタヴューを聞くと、苦しい時に力になるのは、共に練習に励みながらレースに出られない部員たちの強い思いであったり、家族や沿道の声援だそうです。
苦しくて、苦しくて、リタイアーしたいほどでも、沿道の声援を聞き、あるいは背後で応援してくれる家族や友人の顔を思い出して、まだ頑張れる!もう少し頑張ろう!という気持ちになるそうです。
わたしたちの信仰のレースも、これと似ていると思います。
試練の時、苦しい時、一人で抱え込まず、主にある兄弟姉妹に共に重荷を負ってもらうことは、決して弱さではないし、そのために主にある兄弟姉妹が与えられている、ともいえます。
教会の交わりが、イエス・キリストを中心として、共に仕え合い、支え合う交わりになって欲しいし、実際そうなると思います。
14、15節を見ましょう。
14節「 すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。」
「すべての人との平和」というとき、12-13節からの続きとして読むなら、お話しした通り、主にある兄弟姉妹との平和の関係のことが考えられます。キリスト者同士の平和の関係、具体的にはキリストの教会の平和です。教会は、キリストの教会なので、平和であるはずだし、そうあるべきです。
しかし、時にそこにサタンが入り込んでトラブルが起こることがあります。
例えば、ある人が、信仰的に、あるいは聖書的に、自分の主張が正しいと考えて、人を裁いてしまうことがあります。「自分が正しい」と主張している人が、実は間違っていることもあります。
しかし、当人は教会のため、神のための行為、意見だと信じているのです。サタンは巧みで、そうと気付かないように、上手にみ言葉を用いて攻撃するのです。
ですから、主にある兄弟姉妹に対して、あるいはキリストの教会において、何かを強く主張するときには、周囲の方々の意見、特に反対意見を謙虚に聞くことが大切です。
他の人の考えの方が正しかったり、よりよいこともある。神は、一人だけでなく、兄弟姉妹みんなを用いて教会を建てられるからです。教会は、キリストの教会です。自分の主張を通す場ではなく、神の御心を問い、行なう場であるということを、心に留めましょう。ヘブライ3:13-14をお読みください。
ここでの平和は、主にはキリスト者同士、あるいはキリストの教会の中での平和についての教えです。
では、キリスト者以外の人と、争っていいのでしょうか。もっとはっきり言うならば、異教徒との争いは構わないのでしょうか。
イスラエルとガザとの武力衝突が止まりません。イスラエルは軍事力でかの地を奪い取ろうとしているのが透けて見えます。相手が異教徒であれば、その血が流され、命が失われても、神の前に正しい行為なのでしょうか。これは、注意深く旧新約聖書全体を読む必要があります。イスラエル問題を歴史的に学びなおす必要があります。
ですが、少なくともイエス様は、神と隣人を愛することを教えており、隣人には異教徒も含まれます。
マタイ22:37-40 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」「律法全体と預言者」とは、旧約聖書全体です。イエス様は、旧約聖書全体から、「神と隣人への愛」を教えるのです。
ですから、私たちは、教会の中だけでなく、世界全体、自分が属する社会、そして家族にも目を向け、隣人を愛し、平和に過ごすための祈りと行動が必要です。この年の最初に、そのことを確認しておきます。