2025年12月28日「義と平和の実を結ぶ」

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ヘブライ12章4-13節
11:4 信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。
11:5 信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました。神が彼を移されたので、見えなくなったのです。移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです。
11:6 信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。
11:7 信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました。
11:8 信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。
11:9 信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。
11:10 アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。
11:11 信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。
11:12 それで、死んだも同様の一人の人から空の星のように、また海辺の数えきれない砂のように、多くの子孫が生まれたのです。
11:13 この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヘブライ人への手紙 12章4節~13節

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2025年12月28日 説教要約 ヘブライ12:4-13「義と平和の実を結ぶ」
今年最後の主日に、共に礼拝できる恵みを感謝いたします。
ところで、2025年の最初の礼拝では、ヘブライ人への手紙12章1~3節から説教しました。
特に、1節の「自分に定められている競走を忍耐強く走り抜く」ということを覚えた説教でしたが、今朝は2025年最後の主日です。2025年を共に走り抜くことができたことを感謝しています

本日の説教では、新年礼拝に続く箇所、ヘブライ人への手紙12章4節以下を扱います。
12:4 あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。とありますが、ここでの「罪との戦い」とは、「罪人との戦い、迫害者との戦い」とことか、あるいは「自分自身の罪との戦い」のことか。4節を前の1-3節とつなげるか、5節以下とつなげて読むかで変わわります。しかし、どちらにしても、イエス・キリストを信じ従って歩もうとするとき、ある対立が起こり、それに抵抗する必要が生じます。それが5節以下で「主の鍛錬」として教えられています。「鍛錬」は新改訳聖書では「訓練」、さらに「しつけ」とか「教育」という意味もあります。私たちの側から考えれば人生の中での「試練」であり、うれしいものではありません。しかし、それは、主なる神が私たちを「神の子」として扱っておられるゆえであると教えられています。ヘブライ書12:6の言葉で言えば「主は愛する者を鍛え、/子として受け入れる者を皆、/鞭打たれるからである。」

7節~10節では、肉親の親が子供の成長、教育のために我が子を鍛える話を例にして、霊の父である神が、信仰者を鍛えるのだ、ということが語られています。信仰者が試練に会うのは神からの訓練で、この訓練は神が私たちを「神の子」として扱っている故、つまり愛の鞭だ、と説明されています。
肉親の父親は、我が子の成長を願って我が子を鍛えるわけですが、それが必ずしも成功するとは限らないことも事実です。
しかし、霊の父である神の鍛錬は、「わたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。」とあります。
肉親の親は、子供のことを完全に理解して訓練しているわけではありません。しかし、霊の父である神は、私たちのことをすべてご存じの上で、私たちの益となるように鍛えられるのです。
その目的は「神の神聖に与らせるため」です。
人は神のかたちに創造され、神のよき性質が与えられていました。しかし人が罪を犯し、神に背を向けた時点で、人の中のよき性質は曇ってしまったのです。そして神は、そのよき性質を回復させるという目的で、訓練を与えられるのです。二か所聖書を見ましょう。
ヨハネ 3:3 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
二コリ4:16 だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。
両方の箇所で、私たちの肉の体が新たにされると教えられています。
これは、神学用語で言うなら「聖化」の恵みにあずかるということです。ウエストミンスター小教理問答問35を確認しましょう。
問35 聖化とは何ですか。
答 聖化とは、神の無償の恵みの御業であり、それによってわたしたちは、神のかたちにしたがってその人全体が新たにされ、ますます罪に対して死に、義に対して生きることができるようにされます。
しかし、11節にある通り神からの鍛錬、訓練は、わたしたちにとっては試練であることがほとんどで、多くの場合、喜びというより、悲しみであったり、苦痛であることが多い。
具体的に考えてみましょう。病やケガは神からの鍛錬、訓練、と言えるでしょう。
今年2名の執事が骨折して長期間礼拝に出席できませんでした。お二人ともに、生活が大変だったでしょうし、教会もいろんな意味で大変でした。
しかし、そこから得たものもたくさんあったはずです。苦しい時ほど、神が近くにいてくださることの恵みを知ることができ、「神により頼む」という信仰が強められたはずです。礼拝に出席できることの恵みを感じ、また兄弟姉妹の祈りが心強かったと思います。そして、自分も兄弟姉妹のために祈っていこうという思いに導かれたはずです。骨折という試練、鍛錬によって得た恵みは数多かったのではないでしょうか。そして信仰者としての成長もあったと思います。
「試練」「訓練」については、一コリント10:13やローマ5:3-5でも教えられていて、新約聖書のいろんな箇所に、「試練」「訓練」「苦難」について記されています。
ヘブライ12:11 およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。

11節に「義という平和に満ちた実」とありますが、これは「神と人との平和の関係」と言い換えられます。
神との平和な関係とは、罪赦され神の子とされて、確かに神に愛されていることの安心と平安。そして神の国を受け継ぐことの希望。人との平和な関係とは、試練を通して、隣人のことを思いやる者へと変えられて、人との平和の関係を築くこともできるようになること。

このように、神からの鍛錬、訓練を通してわたしたちは神のかたちへと成長していくわけですが、しかし、「当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われる」のも事実です。
神はなぜ、わたしにこんな試練をお与えになるのか!!と、神に訴えたくなることがあります。
それでも、神は、神の愛を信じるわたしを、神のお考えに従って扱ってくださり、必ずわたしの益となるようにしてくださる!!このことを忘れてはなりません。
わたしに対する神の善意、神の愛を信じるのが信仰です。そしてこの信仰を神は喜んでくださるからです。
ヘブライ11:6信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。

さらに、試練の時の忍耐の秘訣は、ヘブライ12章2-3節にある通り、イエス様を見上げること。
辛く、苦しい時に「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめ」ること。
忍耐のお手本は、十字架に踏みとどまって、死を耐え忍んでくださったイエス様ですが、耐え忍んだ先には、イエス様が獲得してくださった復活と新しい命、主にある兄弟姉妹と共に生きる永遠の命の約束の希望があります。
「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」、主にある兄弟姉妹と一緒に、信仰のレースを走り続け、走りぬくことです。

今年一年、皆様と共に、信仰のレースを走り、主に仕えられたことを改めて感謝いたします。
また新しい年、今年とは違う神からのチャレンジがあるとしても、それに勝る神様からの祝福があることを期待して、共に歩みを進めていきましょう。

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