2025年10月12日「人をつまずかせる罪」

問い合わせ

日本キリスト改革派 川越教会のホームページへ戻る

聖句のアイコン聖書の言葉

9:42 「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。
9:43 もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。
9:44 (†底本に節が欠落 異本訳)地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。
9:45 もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。
9:46 (†底本に節が欠落 異本訳)地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。
9:47 もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。
9:48 地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。
9:49 人は皆、火で塩味を付けられる。
9:50 塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」

日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 9章42節~50節

原稿のアイコンメッセージ

<説教要約> 2025年10月12日 マルコ9:42-50「人をつまずかせる罪」 
今日の箇所では、信仰生活における「つまずき」について考えます。「人をつまずかせること」、試練も含めて「自分がつまずくこと」。これらは、私たちの信仰の歩みにおいて大切な課題です。
4つに分けてお話しします。(1)42節:「人をつまずかせる罪」、(2)43-48節:自分自身のうちにある罪に関する警告、(3)49-50節:結び (4)まとめ

(1)42節:「人をつまずかせる罪」
ここは今日の説教題の通り「人をつまずかせる罪」についての言及です。ここで「わたしを信じるこれらの小さな者の一人」は、どのような人を想定しておられるのでしょうか?
42節はは9章33節から41節までの一つの総括です。この一連の話の前に弟子たちは「だれがいちばん偉いか」と言い争っていました。これを聞いてイエス様は言われました。
37節「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は,わたしを受け入れる者」だと。
さらに、38節以下では、自分たちの仲間に加わらなくても、イエス様を信じて神の業~悪霊を追い出しているもの~は、「わたしたちの味方」だと教え、41節では、キリストの弟子に一杯の水を飲ませるという、小さな良き業に言及し、神の国の中の「小さな者」、小さな業」について言及されたのです。
そして、そのすべてのことのまとめとして、42節。「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。」と言われました。
イエス様は、弟子たちの「誰が一番偉いか」論争は、神の国の秩序とは全く正反対、逆であることを教えています。「神の国」では、小さな者、子どものような者、信仰をもってまだ日の浅い者にこそ、眼を注ぎ、配慮していくべきだと。小さな者をつまずかせることは、大きな石臼を首にかけられて海に投げ込まれるより罪が重い、ということです。小さな者、子どものような者だから疎んじても許される、ということは決してありません。
(2)43-48節:自分自身のうちにある罪に関する警告
43-48節は、弟子たちへの警告であり、同時に私たちへの警告でもあります。
43 もし片方の手があなたをつまずかせるなら、 45 もし片方の足があなたをつまずかせるなら
47 もし片方の目があなたをつまずかせるなら、 とあり、自分自身の中につまずきの原因があるなら、いったいどうなるのか。
そして、手を切り捨てても「命にあずかる方が良い」、足を切り捨てても「命にあずかる方が良い」、眼をえぐり出しても、「神の国に入る方が良い」とイエス様は言われます。「命」「神の国」を手に入れること、つまり「神の恵みの中に入ること」は、どんなに大きな犠牲を払ってでも手に入れる価値があります。
また、ここでは「命」「神の国」の対極は「死」ではなく「地獄」という言葉が記されていることにも注意しましょう。
9:48 地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。イザヤ書の預言に基づく言葉です。
私たちは死後のこと、特に地獄のことは考えたくないのですが、聖書は、神の国と地獄、その両方があること、あるいはその両方しかないことをはっきり語っています。
永遠の地獄では、蛆が肉を食い荒らし、体は燃え尽きることのない永遠の火で燃やされ続ける。想像したくない情景です。
ですから、自分だけでなく、愛する家族や愛する者たちの救いのために、福音を伝えること。彼らのために祈ることが求められています。今朝は、そのことも覚えたいと思います。
(3)49-50節:結び
最後、49-50節は33節以下の結びの言葉として読むと、イエス様の一連の話しの意図がわかります。
9:49 人は皆、火で塩味を付けられる。「火」は地獄の火と関連していますが、ここは信仰の歩みの中で経験する試練や迫害のこと。信仰者が人生で直面する困難や苦しみは、意味のない苦しみではなく、それらを通して信仰に塩味がつけられる。つまり信仰者は、困難や苦しみによって鍛えられ、練り清められ、成熟していくということです。
信仰もって、洗礼を受け、イエス様に従う人は誰しも、その歩みの中で試練に会います。その過程で信仰が鍛えられ、きよめられ、神との契約にふさわしい者として成長していくのです。
31節で「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言われましたが、これは、人として地上を歩まれたイエス様が、火によって塩味をつけられた典型的な試練、犠牲です。イエス様ご自身が、私たちの罪を贖うために、大きな犠牲を経験されたのです。
苦しみにのとき、試練の時に、イエス様が私たちのために経験された、大きな犠牲を覚えたいと思います。
9:50 塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」
この50節が一連のまとめであり、イエス様から弟子たちへの警告であり、「永遠の命」が与えられ、「神の国」の民として歩む、私たち信仰者への警告でもあります。

(4)まとめ
小さいもの、弱い者を受け入れ、互いに平和に過ごすこと。これは、イエス様が弟子たちに命じられた弟子としての姿であり、また地上の神の国である教会のあるべき姿でもあります。
また、信仰生活の中での試練や辛さは、私たちを鍛えるため、成長させようとする神の愛として受け止めましょう。
聖書は、私たちが試練の中にあっても、神がその先に恵みと祝福を用意してくださっていることを繰り返し語っています。
ローマ人への手紙5章3-5節「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」
とあり、試練を通して私たちの信仰が鍛えられ、深い希望と新しい力が与えられることが約束されています。
また、ヤコブの手紙1章12節「 試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。」とあります。
試練は地上的なものですが、その先には神の約束された永遠の命の恵みがあります。
苦しみの中にあっても神に信頼し続けることで、やがて大きな祝福へと導かれることを忘れてはなりません。
試練の先には、必ず神の恵みが待っていることを心に刻みたいと思うのです。

関連する説教を探す関連する説教を探す