Youtube動画 礼拝全体を録画した動画を公開しています。 Youtubeで直接視聴する 音声ファイル 礼拝説教を録音した音声ファイルを公開しています。 再生できない方はこちらをクリック 聖書の言葉 9:30 一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。 9:31 それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。 9:32 弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。日本聖書協会『聖書 新共同訳』マルコによる福音書 9章30節~32節 メッセージ <説教要約> マルコ9:30-32 「怖くて尋ねられないこと」<9章30節 なぜ民衆を避けたのか>9:30 一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。「一行」とはイエス様と12弟子のこと。彼らは「ガリラヤを通っていった」とあります。ガリラヤでイエス様は、人々に教え、多くの癒しをなさいましたから、ガリラヤでイエス様の評判は高まっていました。イエス様に癒していただきたい、教えを聞きたいという人がたくさんいました。でも彼らの目的はそれだけではありません。人々はイエス様を自分たちの指導者、王にしたかったのです。しかし、イエス様は既に十字架への道を決断しておられました。ですから、指導者や王に祭り上げられるようなことは避けたかったのです。ですが、もう一つのこと。こちらの方が大切ですが。イエス様はここで、弟子たちに、ご自身の十字架と復活について教えようとしておられたのです。イエス様が弟子たちに、十字架と復活について話すのは初めてではありません。実は2度目です。マルコ8:31-32a それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。しかし弟子たちにとっては、イエス様が苦しみを受け、ユダヤ教指導者たちの手で殺されるなど、受け入れることができないこと。ですから「ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。」とあります。しかしイエス様は、このとき、ご自身の死と復活をはっきり宣言されました。そしてこの話は、このときから、弟子たちの心に重くのしかかっていたはずです。そういう中で、今日の話、9章31節。 9:31 それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。「言っておられた」と訳されていますが、「教えておられた」と訳せることばです。イエス様はもう一度ご自身の十字架の死と復活について、弟子たちに教えようとしておられたのです。<9:31福音の中心>イエス様は、この先ご自身が歩もうとしている道、イエス様の向かう先のこのことを弟子たちにはっきりと教えておられます。「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」「人々の手」とは、いったい誰の手でしょうか。十字架に向かうイエス様の足取りを、福音書の記事から確認しましょう。イエス様は、12弟子のひとりユダの裏切りによって、ユダヤ教指導者たちの手に渡されました。そしてユダヤの最高法院で裁かれ、最終的にはローマ総督、ポンテオ・ピラトのもとで十字架刑が決まりました。いろんな人の手を経て「渡された」わけです。民衆がイエス様を「十字架につけろ」と叫んでいた時、イエス様の弟子たちはどうしていたのでしょう? 彼らはイエス様が捕まると、イエス様のもとから逃げ去りました。弟子たちもイエス様を見捨てたのです。「人々の手に引き渡され」とは、人々の手によってイエス様が十字架にかけられるということですが、イエス様を十字架にかけた手は、当時のユダヤの民衆、指導者たち、ポンテオ・ピラト、さらにイエス様の弟子たちの手も含まれているということです。このように、イエス様の十字架の死には、いろんな人々がかかわっています。ですが、実際には、イエス様を十字架へと渡されたのは「父なる神」です。神ご自身が、永遠からのご計画、救いのご計画に基づいて実現されたのがイエス様の十字架です。ローマ8:32a「 わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」とありますが、「その御子をさえ惜しまず死に渡された方」とは、父なる神のこと。イエス様の十字架は、「人々の手」によるものでしたけれど、そのことを計画し、実現したのは父なる神であり、それは永遠からの救いの計画だったのです。<9:31 復活する>さらにイエス様は「殺されて三日の後に復活する」と言われます。イエス様の言葉は「殺される」では終わりません。「三日の後に復活する」ことも教えておられます。「三日の後の復活」については、8章31節でもすでに教えられていました。しかし弟子たちは「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。」についていけず、今回の教えでも彼らはイエスの死を直視する勇気がありませんでした。ですからその後に続く「三日の後の復活」については、まったく思考停止状態。彼らの心に「怖れ」が入って、その先の更に大切なことについて、イエス様に尋ねる勇気がなかったのです。<イエス様の死と復活の意味>この時弟子たちが、イエス様の言葉を受け入れさらに尋ねたなら、イエス様は十字架の意味と三日後の復活について、詳しく教えてくださったことでしょう。でも、弟子たちには、イエス様の死を受け入れる準備ができていなかったのです。それが32節。「弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。」です。<イエス様の十字架の死と復活の意味、まとめ>弟子たちがイエス様の十字架の死と復活の意味を理解したのは、復活のイエス様にお会いした後のことでした。復活されたイエス様が旧約聖書から御自身の死と復活の意味を説明されたとき、弟子たちははじめてその深い意味を悟ることができました。知識としてではなく、実際の体験と主ご自身の導きによって、弟子たちは徐々にその意味を受けとめていったのです。今、そのすべは聖書に記されています。イエスの十字架の死は、人類の罪を贖うための神の深い愛の現れでありました。イザヤ書53章5節等。新約聖書では、イエス様の十字架の死は「わたしたちの罪のため」と教えられています。ローマ5:8復活はイエス様が死に勝利された出来事だと記されています。ローマ6:23 そして、イエス・キリストの福音の中心は、Ⅰコリント15:3-6イエス様の復活は、罪と死に対する勝利のしるしであり、信じる者にイエス様と同じ新しい命と義が与えられるという約束もあります。ローマ6:4-5 キリストの復活は、イエス・キリストを主と信じる者たちも、死を越えてやがて復活する希望が与えられていることの保証です。「分からないから、怖いから、尋ねるのをやめよう」ではなく、忍耐強く、福音の真理へと導かれるよう祈りつつ、御言葉を聞き続けましょう。必ず神は、わたしたちを永遠の命の祝福へと招き入れてくださいます。 関連する説教を探す 2025年の日曜朝の礼拝 『マルコによる福音書』
<説教要約> マルコ9:30-32 「怖くて尋ねられないこと」
<9章30節 なぜ民衆を避けたのか>
9:30 一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。
「一行」とはイエス様と12弟子のこと。彼らは「ガリラヤを通っていった」とあります。ガリラヤでイエス様は、人々に教え、多くの癒しをなさいましたから、ガリラヤでイエス様の評判は高まっていました。イエス様に癒していただきたい、教えを聞きたいという人がたくさんいました。でも彼らの目的はそれだけではありません。人々はイエス様を自分たちの指導者、王にしたかったのです。
しかし、イエス様は既に十字架への道を決断しておられました。ですから、指導者や王に祭り上げられるようなことは避けたかったのです。
ですが、もう一つのこと。こちらの方が大切ですが。イエス様はここで、弟子たちに、ご自身の十字架と復活について教えようとしておられたのです。
イエス様が弟子たちに、十字架と復活について話すのは初めてではありません。実は2度目です。
マルコ8:31-32a それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。
しかし弟子たちにとっては、イエス様が苦しみを受け、ユダヤ教指導者たちの手で殺されるなど、受け入れることができないこと。ですから「ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。」とあります。しかしイエス様は、このとき、ご自身の死と復活をはっきり宣言されました。
そしてこの話は、このときから、弟子たちの心に重くのしかかっていたはずです。
そういう中で、今日の話、9章31節。
9:31 それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。
「言っておられた」と訳されていますが、「教えておられた」と訳せることばです。イエス様はもう一度ご自身の十字架の死と復活について、弟子たちに教えようとしておられたのです。
<9:31福音の中心>
イエス様は、この先ご自身が歩もうとしている道、イエス様の向かう先のこのことを弟子たちにはっきりと教えておられます。「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」
「人々の手」とは、いったい誰の手でしょうか。
十字架に向かうイエス様の足取りを、福音書の記事から確認しましょう。
イエス様は、12弟子のひとりユダの裏切りによって、ユダヤ教指導者たちの手に渡されました。そしてユダヤの最高法院で裁かれ、最終的にはローマ総督、ポンテオ・ピラトのもとで十字架刑が決まりました。
いろんな人の手を経て「渡された」わけです。民衆がイエス様を「十字架につけろ」と叫んでいた時、イエス様の弟子たちはどうしていたのでしょう? 彼らはイエス様が捕まると、イエス様のもとから逃げ去りました。弟子たちもイエス様を見捨てたのです。
「人々の手に引き渡され」とは、人々の手によってイエス様が十字架にかけられるということですが、
イエス様を十字架にかけた手は、当時のユダヤの民衆、指導者たち、ポンテオ・ピラト、さらにイエス様の弟子たちの手も含まれているということです。このように、イエス様の十字架の死には、いろんな人々がかかわっています。
ですが、実際には、イエス様を十字架へと渡されたのは「父なる神」です。神ご自身が、永遠からのご計画、救いのご計画に基づいて実現されたのがイエス様の十字架です。
ローマ8:32a「 わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」とありますが、「その御子をさえ惜しまず死に渡された方」とは、父なる神のこと。イエス様の十字架は、「人々の手」によるものでしたけれど、そのことを計画し、実現したのは父なる神であり、それは永遠からの救いの計画だったのです。
<9:31 復活する>
さらにイエス様は「殺されて三日の後に復活する」と言われます。イエス様の言葉は「殺される」では終わりません。「三日の後に復活する」ことも教えておられます。
「三日の後の復活」については、8章31節でもすでに教えられていました。しかし弟子たちは「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。」についていけず、今回の教えでも彼らはイエスの死を直視する勇気がありませんでした。
ですからその後に続く「三日の後の復活」については、まったく思考停止状態。彼らの心に「怖れ」が入って、その先の更に大切なことについて、イエス様に尋ねる勇気がなかったのです。
<イエス様の死と復活の意味>
この時弟子たちが、イエス様の言葉を受け入れさらに尋ねたなら、イエス様は十字架の意味と三日後の復活について、詳しく教えてくださったことでしょう。でも、弟子たちには、イエス様の死を受け入れる準備ができていなかったのです。
それが32節。「弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。」です。
<イエス様の十字架の死と復活の意味、まとめ>
弟子たちがイエス様の十字架の死と復活の意味を理解したのは、復活のイエス様にお会いした後のことでした。復活されたイエス様が旧約聖書から御自身の死と復活の意味を説明されたとき、弟子たちははじめてその深い意味を悟ることができました。知識としてではなく、実際の体験と主ご自身の導きによって、弟子たちは徐々にその意味を受けとめていったのです。
今、そのすべは聖書に記されています。
イエスの十字架の死は、人類の罪を贖うための神の深い愛の現れでありました。イザヤ書53章5節等。
新約聖書では、イエス様の十字架の死は「わたしたちの罪のため」と教えられています。ローマ5:8
復活はイエス様が死に勝利された出来事だと記されています。ローマ6:23
そして、イエス・キリストの福音の中心は、Ⅰコリント15:3-6
イエス様の復活は、罪と死に対する勝利のしるしであり、信じる者にイエス様と同じ新しい命と義が与えられるという約束もあります。ローマ6:4-5
キリストの復活は、イエス・キリストを主と信じる者たちも、死を越えてやがて復活する希望が与えられていることの保証です。
「分からないから、怖いから、尋ねるのをやめよう」ではなく、忍耐強く、福音の真理へと導かれるよう祈りつつ、御言葉を聞き続けましょう。必ず神は、わたしたちを永遠の命の祝福へと招き入れてくださいます。