2025年07月13日「わたしに従いなさい」

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マルコ8章34-38節
8:34 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
8:35 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。
8:36 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。
8:37 自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。
8:38 神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」

日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 8章34節~38節

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マルコ8章34-38節「わたしに従いなさい」

主イエスは十字架を前にして、御自分がどのようなメシアであるのかを弟子たちにお示しになります。
8:31「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、そして、三日の後に復活する」と。
イエス様は、ご自身がたどることになっている苦しみについて、「十字架の死と復活」について、弟子たちに語りました。それがキリストである、メシアであるということの意味であり、神の永遠からの救いの計画として課せられた働き、使命であるとお語りになったのです。しかしこの時弟子たちは、この言葉の意味を受け止めることができませんでした。

イエス様はここで、イエスの弟子であるとはどういうことなのか、を教えておられます。
それが今日の箇所、34節以下です。
イエス様は、イエス様の言葉を聞き、信じ、イエス様の弟子として、イエス様と共に生きようと決心した弟子たちに対して、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と教えています。
イエス様は、具体的に、二つのことを語っています。
「自分を捨てること」、「自分の十字架を背負ってイエスに従うこと」です。

自分を捨てるとは具体的にはどういうことでしょうか?
自分の人生を放棄する、ということでしょうか? 
修道僧のように、地上の生活とは縁を切って、別世界に引きこもって生きる、ということでしょうか?
「自分を捨てる」とは、いろんないい方ができると思いますが、私はこういいたいと思います。
自分にだけ、自分の願いや欲望にだけ目を向けた生き方を離れて、神のご計画の中で、自分の人生を見つめ生き直す。
あるいは、神を愛し、隣人を愛する人生を歩み、キリストに結ばれて新しい命を生きる。
そう言い換えることもできると思います。

「自分の十字架を背負ってイエスに従う」とは、どういうことでしょうか。
主イエスは私たちの罪という重い十字架を負って、ゴルゴダの坂道を上り、十字架上で刺し貫かれ、苦しまれ、死なれました。御子の十字架と死は、神の永遠からの救いのご計画であり、父である神が御子イエスにお与えになった御業です。
イエス様は十字架の上で神からも人からも捨てられ、苦しまれ、死なれたのです。
そして、主イエスは、わたしたちにも「自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」と求めておられます。
しかし、注目すべきは35節です。 「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」

主イエスは、十字架上で死なれました。十字架のうえでご自身の命を失ったのです。それは、イエスを主と信じ、従おうとする者たちのためでした。イエスご自身が、まず、自分を捨て、十字架の道を歩まれたのです。
そして神は、このイエスを三日目に復活させました。
イエスご自身が、誰よりも先に、「自分を捨て、自分の十字架を背負う道」歩まれたのですが、命を捨てた道の向こうに、命が現れた。復活の命が開かれたのです。
主イエスは、十字架を背負い、神と人に捨てられ、確かに死なれたけれど、その向こうにある確かな命、永遠の命を、イエスを信じ、従う者たちのため、私たちのために獲得してくださったのです。

主イエスは、そういう十字架から復活への道を歩み通されたご自身の「後に」「あたなも従いなさい」と言っておられます。 「従いなさい」とは「ついてきなさい」という命令のことばです。
そしてこれは、死からよみがえられた方の招きです。
わたしについて来なさい!わたしについてくるなら、たとえあなたがどのような十字架を背負っているとしても、必ずあなたを復活の命へと導き入れます!
わたしの死と復活は、自分の十字架を背負おうとするあなたの歩みと共にあります。
わたしの後についてくる者を、わたしは決して見捨てはしない、と主イエスは招いておられるのです。

ですから、わたしたちにとって、自分の十字架を背負う道は、主イエスと共に歩む道です。
わたしたちが自分の十字架を負って歩むとき、わたしたちは、わたしに伴ってくださり、わたしの歩みを助け、支えていてくださる主イエスを見出します。
そのようにして、自分の十字架を負いつつ、主に従って歩むとき、私たちは、私の存在と私の人生の全てが、神の国の恵みの中で、神のご計画の中で、尊く、意味のあるものだということを知ることができる。 そして神の愛の中に生かされていることの平安を、深く、深く味わうことができるのです。

ボンヘッファーという神学者は「主イエスを信じ、従って生きようとする者に、十字架が備えられ、委ねられ、わり与えられている」と語ります。主イエスに従おうとする時、置かれた時代、置かれた場所、状況の中で、担うべき働き、役割、使命があるということです。
今の私たちでしたら、それは社会や地域、職場の中で、あるいは、家族の中で、キリストを証して生きることかもしれません。隣人や家族に、神の愛を示す働きであるかもしれません。あるいは、教会の中での具体的な奉仕や役割であるかもしれません。さらには、肉体的な弱さ、病やケガなど、肉体的な試練かもしれません。
それぞれが置かれている状況の中で、担うべき神の国のための働きや試練があります。
しかし、そこに主イエスが共にいてくださるのです。

時代や国によって、キリストに従うということで、迫害にあい、投獄や、拷問、処刑へとつながるほど、厳しい十字架を負わなければならない場合もあります。
さきほどのボンヘッファーは、ナチス政権に反対し、投獄され、最終的に処刑されました。彼の言葉で言うならば、まさに彼は、大きい苦しみを受けるに値する者として、殉教の恵みが与えられた ということになります。
しかしこのようなことは、昔の話しではありません。
中国では、キリスト教信者に対して厳しい監視の目があります。北朝鮮でキリスト教信仰を持つのは命がけです。
イスラム過激派による、キリスト教徒や教会を標的にするテロもあります。
そういうことを考える時、私たちは、私の力に余るような十字架をどうか背負わせないでください!と祈りたくなります。
しかし、同時に、どのような状況に置かれたとしても、キリストに従う歩みができますようにと願います。
ですから、次の35節の言葉を心に刻みたいと思います。
「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」
地上での自分の命、平穏な生活だけに執着して生きるなら、わたしたちは神との生きた交わりとして永遠の命を失います。反対に、キリストに従う歩みを通して、神との生きた交わりさえあれば、神と共に、神の祝福の中を生きることができるのです。

主イエスは、今朝、あなたに
「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」と呼びかけておられます。

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