2025年06月15日「まだ悟らないのか」

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8:11 ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた。
8:12 イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」
8:13 そして、彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。
◆ファリサイ派の人々とヘロデのパン種
8:14 弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。
8:15 そのとき、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められた。
8:16 弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた。
8:17 イエスはそれに気づいて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。
8:18 目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。
8:19 わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。
8:20 「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、
8:21 イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 8章11節~21節

原稿のアイコンメッセージ

<説教要約>
8章11節から13節は、イエス様とファリサイ派の人々とのやり取りが書かれています。
ファリサイ派の人々が、イエス様に「天からのしるし」、「神から遣わされたことのしるし」を求めたのです。
しかし、彼らはここで、イエス様が誰なのか、その正体を本当に知ろうとして、イエス様という方を、本当に理解しようと思っていたわけではありません。彼らは何とかしてイエス様をやり込めたい。イエス様の足を引っ張りたい。失脚させたい。そういう思いで議論を仕掛け、しるしを求めてきたのです。

その言葉を聞いて、イエス様は、
8:12「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。」とおっしゃり、心の中では「深く嘆いて」おられりました。
イエス様は、御自身が食事をする時間も惜しむようにして多くの町や村をまわって、神の国の福音を伝えてきました。
神の国がイエス様と共に地上に近づいたことを、多くの癒しや憐れみの御業を通して、示してきました。多くの人々がその恵みに与り、イエス様が通常の人間ではないことを理解し始めていました。ですから、天からのしるし、神からのしるしは既に、たくさん与えられていたのです。
しかし、ファリサイ派の人々は、なおも、天からのしるしを示せと議論を仕掛けてくる。 
彼らは心を開いて、イエス様に向かおうとはしない。イエス様は、そんな態度に、うんざりなさったのでしょう。
「深く嘆いて」という言葉、がっかりした時に深~くため息をつく、そんな感じの言葉です。
そこでは彼らと議論を続けることをなさいませんでした。そして彼らをそのままにして、弟子たちとともに船に乗り込み、ガリラヤ湖の向こう岸へと向かわれました。
8:13「そして、彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。」
13節の「そのままにして」という言葉は、置き去りにしてとか、放棄して、という意味もあります。つまり、心を開いてイエス様に向かうことをしないファリサイ派の人々を、この場面でイエス様は、見捨てられたのです。
心を開いて神に向かうことをしない者に対して、神は何もお示しになりません。
神に見捨てられ、何も示していただけないとしたら、その人が救いに与ることはありません。ですからこれ以上、恐ろしいことはないのだと思います。

その後の、14節から21節は、船の中での、イエス様と弟子たちとの会話です。
イエス様は弟子たちに、「ファリサイ派の人々のパン種に気をつけなさい」また、「ヘロデのパン種にもよく気をつけなさい」と戒められたのです。
パン種とは、パンを膨らますイースト菌、酵母菌のこと。
イエス様は「ファリサイ派のパン種」と「ヘロデのパン種」に気をつけるようにとおっしゃいました。
パン種、イースト菌は、ほんの少し粉の中に混ぜるだけで、パン全体を膨らませる力があります。
なので、聖書の中では、パン種は、少量でも全体に浸透して影響を与えることの例えとして使われています。パンは、イースト菌のおかげでふっくらとおいしくなるんですが、聖書では、どちらかといえば悪い影響の方に使われているようです。「ファリサイ派のパン種」と「ヘロデのパン種」とは、「ファリサイ派の影響力」「ヘロデの影響力」に気をつけなさい!という、イエス様の警告です。
具体的には、
ファリサイ派のパン種とは、一言で言えば「偽善」。外側、外見だけを取りつくろって、あたかも信仰深いように振る舞うが、心が伴わない。実際には信仰が伴っていない。イエスに向き合おうとしない、そういうパン種です。
ヘロデのパンだねの方は?
このヘロデは、マルコ福音書の6章に登場するヘロデのことでしょう。
ヘロデは自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚していました。そして、その罪を洗礼者ヨハネに指摘されると、ヨハネを牢に入れ、さらには、妻ヘロディアの陰謀によってヨハネの首をはねることを許した、そう言う人物です。
しかし、このヘロデについては、こんな記述もあります。
マルコ6:20 「ヘロデは、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。」
つまり、ヘロデは、ヨハネの教えが正しいことはわかっていたし、自分の罪もわかっていたんです。
彼は、正しい教え、正しい生き方がわかっていたのに、自分の生活を改めることをせず、自分の欲望のままに罪を重ねた。そういう生き方をした人です。イエス様は、ここでそういう生き方にも気をつけなさい、と弟子たちに注意をされたのです。

しかし、弟子たちは、イエス様のおっしゃったことの意味が分かりませんでした。
この時弟子たちはパンを持ってくるのを忘れて、舟の中にはパンが一つしかありませんでした。それで、イエス様が、弟子たちの配慮の足りなさを攻めておられるんだと思ったのです。
しかし、弟子たちは、イエス様がパンを増やして4千人に分け与えたこと、、5つのパンと2匹の魚を5千人以上の人々に分け与えられことを忘れてしまったのでしょうか。それらのことから類推するなら、イエス様は必要であればパンを増やす、あるいは出すことだってお出来になる、と考えられなかったのでしょうか。
しかし、その場の弟子たちの心は、自分たちがパンを準備して持ってくるのを忘れた、そのことにばかり気を取られていたのです。

イエス様はファリサイ派の人々の言葉を聞いて深く嘆かれましたが、弟子たちまでが、イエス様の言葉を理解できず、また霊的な事柄への洞察力を持たず、的外れなことを論じあっているのを聞いて、さらにがっかりされたのです。
そして言われました。
8:17-18「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。 目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。」
18節の言葉は、旧約聖書からの引用です。旧約聖書で、預言者たちが、何度も何度も、イスラエルの人々に語ってきた言葉です。イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書などに、同じような言葉があります。

弟子たちは、パリサイ派の人々のように意図的にイエスを拒んだわけではありません。
また、ヘロデのように、世俗的な生き方を選んでいるわけでもありません。
彼らは、イエス様のおそばで、イエス様に仕え、従って生きていこうとしている弟子たちです。
しかし、主と一緒に行動し、多くのことを教えられ、示され、多くのしるしに関わってきたにもかかわらず、いまだに主が誰なのか、何がおできになるのか、イエス様の権威と力を理解していないのです。イエス様は、そのことを嘆かれました。しかし弟子たちに対しては、必要なことを丁寧に教えておられます。
今までの歩みを振り返って、思い出させることで、彼らの目を、耳を、開こうとなさったのです。
そして21節「イエスは、『まだ悟らないのか』と言われた。」

今日の箇所から、私たちは何を教えられるでしょうか?
ひとつは、「パン種に注意しなさい」ということです。
パン種という言葉を使って、パウロがコリント教会にこのような言葉を送っています。
Ⅰコリント5:6-8「あなたがたが誇っているのは、よくない。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。
だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。」

私たちの中にも古いパン種や悪意と邪悪のパン種、といわれるような、罪の種がなお残っています。
それが心の中で大きく膨らんだら、心と体全体に影響を及ぼします。信仰の目を曇らせ、キリストの救いを覆い隠してしまう危険があります。ですから「よく気をつけなさい」と戒めているのです。
では、どう気を付ければいいのでしょうか。
パウロは、コリント教会の人々に、パン種の入っていない、純粋で真実のパン、つまり天からのパン、まことのパンであるキリストに目を向けるようにと勧めています。
イエス様から目を離さないように、信仰の歩みから離れないように、気をつけること!
その為に、私たちに与えられているのは、御言葉と礼典と祈りです。毎週の礼拝で語られるイエス様のみ言葉、さらに見えるみ言葉としての聖餐の礼典、そして主にある交わりの中に身を置き続け、その恵みに与り続けることを大切にしたいと思います。

もう一つのことは、イエス様は、ここで弟子たちの霊的な理解力の乏しさを嘆いておられます。
「まだ悟らないのか」と。
私たちも、霊的な事柄、神のみ旨、ご計画、神のみ業をなかなか悟れない者だと思います。
悟れない弟子たちに、イエス様はここで、主と共に歩んだ経験を思い返すことで霊的な理解を深めさせようとしておられます。4千人にパンを与えたこと、5千人にパンを与えた事件を思い出させています。今までのイエス様との歩みを思い返すことで、信仰の成長を促しているのです。
これは、私たちにも言えることです。
とかく、私たちは先のことにばかり目を向けがちですが、時に、ゆっくりこれまでの信仰の歩みを振り返ること。そういう中で、神の恵みと共に歩ませていただいていることを再確認し、霊的な事柄を理解することができるんだと思います。
主と共に歩んできた自らの歩みを振り返り、今まで主なる神様がわたしの人生をどのように導いてこられたのか。
いろんなことが起こっても、私たちは今、信仰をもって礼拝に集い、神と教会に仕えています。
神様が、私たちの歩みを、これまで確かに支えてくださったのです。
そのことを思い出し、感謝の思いと共に また先を目指して進んでいきましょう。
こういう積み重ねを通して、私たちの信仰が、霊的な理解力が成長させられるのです。


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