2025年06月01日「恵みの食卓2」

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聖句のアイコン聖書の言葉

8:1 そのころ、また群衆が大勢いて、何も食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。
8:2 「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。
8:3 空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」
8:4 弟子たちは答えた。「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」
8:5 イエスが「パンは幾つあるか」とお尋ねになると、弟子たちは、「七つあります」と言った。
8:6 そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。
8:7 また、小さい魚が少しあったので、賛美の祈りを唱えて、それも配るようにと言われた。
8:8 人々は食べて満腹したが、残ったパンの屑を集めると、七籠になった。
8:9 およそ四千人の人がいた。イエスは彼らを日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 8章4節~10節

原稿のアイコンメッセージ

<説教要約>
今日の説教題は「恵みの食卓2」としました。
といいますのも、少し前に見たマルコ福音書6章30節以下に「2匹の魚と5つのパンをイエス様が5千人に分けた話」、いわゆる「五千人給食」の話しがあります。
5千人給食の話は、4つの福音書すべてに記され、大変に有名ですが、4千人給食の方は、マタイ福音書とマルコ福音書だけです。
ではなぜ、マタイとマルコは、有名な五千人給食の話の後に、よく似た話を記したのでしょうか? 
この4千人給食の話しは、5千人給食とは別な意図、メッセージがあるのではないか、と考えるわけです。

カギになるのは8章2節。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。」です。
ここは、明らかに5千人給食の話しと違います。
5千人給食では、人々はその日、朝からイエス様と共に居て、その日の夕方になって「食べるものがない」ということになったのです。
しかし、今日の話では、三日もイエス様と一緒にいて、そして食べ物がない!!という状況。これは、全く驚きです。
イエス様は3日間も神の国の福音を語り、病に苦しむ人々を癒し続けました。
人々はイエス様の言葉、神の国の福音を喜んで聞き続け、病人は癒され、また癒しを目撃したのです。
人々は、イエス様が、深い愛と憐みをもって自分たちに向かっておられることを感じたのです。
そうして、イエス様の愛の中で、時間も、空腹も忘れるほどの恵みの時を過ごしたのです。
イエス様が共にいてくださることの恵み、平安、安心は、3日間も我を忘れるほど、喜びに満ちたときであり、空腹も忘れるほど霊的に満たされた経験だったのです。まさに、神の国の前味、地上の神の国、というような状況でした。
主が共におられることの恵み、平安、喜びがここにはありました。

しかし、イエス様は、人々が霊的に満たされればそれでいい、とはお考えになりません。
イエス様は、人々の現実にも目を向けてくださいます。3節「空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」イエス様はそこにいる一人一人のことを知っておられ、そして必要な配慮をしようとなさったのです。
4千人もの人がそこにいて、そのひとりひとりがどこから来て、何を求めているのか。どんな思いでそこにいるのか、イエス様は全てをご存知でした。
特に、3日目までそこに残っていた人は、イエス様の語る福音を聞きたかった人々。神の国と神の義を求めていた人々です。
癒しだけを求めた人々は、癒されたらさっさとその場を離れたはずですから。
神の御心を知り、神に従って生きていきたいと願った人々がそこに残っていたのです。そして、そのような人々のために、イエス様は食物を、とりわけ命のパンを分け与えられたのです。

マタイ福音書6:33にこのように記されています。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」この時、まさにこの言葉が実現しているのです。

一方で、「空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」というイエス様のお言葉に対して、弟子たちの答えは、4節「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」でした。
ですが、この言葉には私たちだって驚かされますよね。
ほんの少し前に、イエス様が5千人にパンと魚を分けられた、あの出来事を弟子たちはすっかり忘れてしまったのでしょうか。
しかし、これは弟子たちへの、信仰訓練です。
弟子たちはこのように、繰り返し、繰り返し、イエス様がどのようなお方なのか、どれほどの力を持っておられるのかを教えられました。
そして、イエス様が共にいてくだされば、安心、安全だということを何度も経験したのです。それでも、悲しいかな。弟子たちはイエス様の力、神の力をなかなか信頼することができない。
ですから、イエス様は、何度も繰り返し、繰り返し、弟子たちの信仰を成長させるため、弟子訓練をなさったのです。
嵐のみずうみで、風と波を従わせたとき、イエス様は弟子たちに言いました。4章40節「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」
今回のことについても、18-21節にイエス様の教えがあります。
そして、10章27節にはこう記されています。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」

パンの話に戻ります。その場にはパンが7つありました。イエス様は前回と同じように、その7つのパンを人々に分け、与えられました。
6-9節「七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えて裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。また、小さい魚が少しあったので、賛美の祈りを唱えて、それも配るようにと言われた。人々は食べて満腹したが、残ったパンの屑を集めると、七籠になった。およそ四千人の人がいた。イエスは彼らを解散させられた。」

イエス様は命のパンである福音、神の言葉で人々を養いました。三日間も、彼らが我を忘れるほど、人々の魂を満たされたのです。
そのクライマックスがパン裂きの御業です。7つしかなかったパンが、イエス様の手によって裂かれると、パンは分けても、分けても、なくならず、足りなくなることがありませんでした。4千人が皆食べて満腹し、残ったパンの屑が7籠にもなったのです。
その場にいたすべての人が、魂もお腹も満たされました。それは天国の晩餐を思わせるような、そんな光景だったことでしょう。
そしてこれは、
マタイ6:33「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」が現実となった、そういう出来事です。
イエス様は、霊的な必要だけでなく、人々の肉体の必要、生活の必要も配慮してくださるお方だということを、私たちはこの話から知ることができます。

また、この食卓は、この後イエス様が十字架へと向かわれるそのことを象徴的に示している出来事でもあります。
イエス・キリストが十字架で裂かれた肉と、流された血を通して、私たちに与えられる神との和解を受けることで、神との交わりが回復され、私たちも神との生きた交わりの中で生きることができるのです。
神との交わりの内に生きること、これこそが、心も体も満たされて生きる秘訣です。


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