2025年05月25日「キリスト教の祈り 誰に祈るのか」

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キリスト教の祈り 誰に祈るのか

日付
説教
木村恭子 牧師
聖書
ローマの信徒への手紙 10章8節~17節

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聖句のアイコン聖書の言葉

10:8 では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、/あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。
10:9 口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。
10:10 実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。
10:11 聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。
10:12 ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。
10:13 「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。
10:14 ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。
10:15 遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。
10:16 しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。
10:17 実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ローマの信徒への手紙 10章8節~17節

原稿のアイコンメッセージ

<説教要約><説教要約>10章8-17 「キリスト教の祈り 誰に祈るのか 」
本日は、キリスト教の祈りは誰に対しての祈りかということを、信仰との関係で考えます。

本日のテキスト、ローマの信徒への手紙10章8-17節には、信仰についての基本的なことが記されています。

その中で、10章8節の「」の言葉、「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」は、旧約聖書、申命記30章11-14節をパウロがまとめたものです。まず旧約聖書を確認しましょう。
申命記30章11-14
30:11 わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。
30:12 それは天にあるものではないから、「だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。
30:13 海のかなたにあるものでもないから、「だれかが海のかなたに渡り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。
30:14 御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。

旧約聖書、申命記の文脈で読むとこうなります。
神の言葉である律法は、イスラエルの民に与えられている。その内容は、難しすぎて手も足も出ないというものではない。「あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。」と読むことができます。
確かに、神の言葉である律法、特にその中心である十戒は、神からモーセに手渡され、イスラエルの民に教えられました。しかし、実際に「それを行うことができる」か、「それを行うことができたか」は、疑問符が付きます。
ですが、イエス様の時代のユダヤ教徒たち、特にファリサイ派の人々は、律法を守ることに力を尽くしました。何とか律法を守ろうと努力し、律法を守るために、神から与えられた戒めに様々な細則、細かな規定を加えていきました。その結果、当時の人々生活はがんじがらめになりました。それでも、彼らは律法を守ることに価値を見出し、「律法の通りに生きることができる」と考えたのです。
しかし、この考え方は大きな間違いです。
人間は、アダムとエバが神に背を向け、神から離れて以来、神に従って、神の律法に従って生きることのできない者となり、自らの意志の力で、神に従うことができなくなっていたからです。

そのことを確認した上で、注意して、ローマの信徒への手紙に記されているパウロの言葉、8節のカッコの中の記述を読んでみましょう。
10:8 では「御言葉はあなたの近くにあり、/あなたの口、あなたの心にある。」となっています。
こちらは申命記30:14の最後の言葉、「それを行うことができる。」が省かれています。
パウロは、み言葉=旧約律法、十戒、神への愛と人への愛、は、旧約聖書で教えられ、あなたの口と心にある。しかし、「それを、私たちは自分の力で行うことはできない!!」と言いたいのです。

わたしたちが神に近づくために、そして救われるためには、イエスキリストを通して与えられる赦しが必要です。
ですから9節以下で、パウロは信仰について教えています。
パウロはここで「御言葉」とは旧約律法ではなく、「わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉」、イエスキリストの十字架の死と復活を通して与えられる救い、キリストの福音だと言いたいのです。そのことがわかると9節以下が理解できるでしょう。

10:9 口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。
10:10 実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。
神の救い、永遠の命の祝福は、律法を守ること、あるいは人間のよき業で得られるものではありません。
私たちはイエス・キリストを信じる信仰によって、具体的には、心で信じ、口で告白して救いに入れられるのだ、とパウロは教えます。
イエス・キリストを信じるとは、単に心の問題ではありません。
心でイエス・キリストを通して与えられる救いを信じ、口で「イエスはわたしの主」と告白すること。ここでは、洗礼を受ける、ということが念頭に置かれています。
10:13 「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。
「心で信じ、口で告白し」た人は、「主の名を呼び求め」て生きるのです。

ところで「主の名を呼び求める」とは、何を指すのでしょうか。
広くとらえれば、主を信じて献げる礼拝。礼拝行為そのものが「主の名を呼び求める」ということです。
しかしもう少し突き詰めて考えると、「主の名を呼び求める」とは、「神の名を呼ぶ」ということで、信じている神の名を呼んで祈る、ということになります。

今日の説教題は「キリスト教の祈り 誰に祈るのか」としましたが、キリスト教の祈りは、自分が信じている神を呼んで、祈る、ことです。
多くの人は、自分がよく知らない神に祈ります。家内安全、交通安全、合格祈願、病気の癒し、安産祈願などなど、よく知らない相手に祈っているのです。

ですが、キリスト教の祈り、クリスチャンの祈りは、祈る相手、神のことを理解して祈る祈りです。
神がどのような方であるのかは、旧新約聖書に証されています。
天地万物を造り、今もこの世界を支配している神。私の罪のために、御子を十字架にかけて裁き、罪の贖いをしてくださった神。この神が、今も私に目を留め、愛し、慈しもうと、待ち構えておられます。
わたしたちが祈る神がどのような方なのかは、聖書を通して、礼拝の説教を通して、理解することができます。わたしたちは、祈る相手がどのような方なのかを知って、祈っているのです。
また、御言葉を通して神を知れば知るほど、親しい関係で祈ることができ、祈りを重ねていくことで、神との関係がさらに深められていきます。逆に、祈らなければ神との関係が、深まらない、ともいえるでしょう。

ウェストミンスター大教理問答の問178と問179が参考になりますので、紹介しておきます。
問178 祈りとは何ですか。
答 祈りとは、キリストの御名により、キリストの御霊の助けによって、わたしたちの罪の告白と、神の憐みへの感謝に満ちた謝辞とともに、わたしたちの願いを神にささげることです。

わたしたちは、いろんな状況の中で、疲れ果て、打ちのめされ、あるいは深い悲しみの中で、祈れないことがあります。そういう私たちを、神が、キリストの霊が助けてくださり、祈りの心を、言葉を与えてくださいます。ですからわたしたちは神に近く、神と共に歩むことができるのです。
ローマ8:26 同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。

問179 わたしたちは、神にのみ祈らなければなりませんか。
答 神だけが、すべての人の心を探り、願いを聞き、罪を赦し、希望をかなえることができるお方であり、また、ただひとり、信じられ、宗教的礼拝をもって拝されるべきお方です。
それゆえ、宗教的礼拝の一つの特別な部分である祈りは、すべての人によって、ただ神だけにささげられねばならず、他のいかなるものにもささげられてはなりません。

「祈りは、礼拝の一つの特別な部分」とあります。祈りは神礼拝です。
わたしたちキリスト者は、祈ることで、神を礼拝し、神と共にて生きていくのです。

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