2025年05月11日「人々の願いとイエスの憐れみ」
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人々の願いとイエスの憐れみ
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- 木村恭子 牧師
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マルコによる福音書 7章31節~37節
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聖書の言葉
【新共同訳】
マル
7:31 それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。
7:32 人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。
7:33 そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。
7:34 そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。
7:35 すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。
7:36 イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。
7:37 そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 7章31節~37節
メッセージ
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<説教要約 >
今日の説教題は「人々の願いと主の憐れみ」としました。
まず「人々の願い」について見たいと思います。
7:31~32「それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。」これが今日の箇所の、話の始まりです。
前回の話しは、わが子の救いを願う母の信仰によって、子どもの病が癒されたという話しでしたが、今回も本人の信仰については何も触れられていません。周囲の人の思いが先行しています。
家族か、親戚か、あるいは友人かもしれませんが、周囲にいた人がこの人を主イエスのもとへ連れてきた。主イエスのところへ連れて行けば、癒していただけるかもしれない。いや、憐れみ深いお方のようだから、いやしてくださるだろう。あるいは、主イエスによって大勢癒された人がいるのだから、とにかく連れて行ってみよう。何もしなければこのまま治らないのだから、連れて行ってみるだけの価値はあるはずだ、と思ったのかもしれません。いろんな状況を想像することができます。
でも、確かなことは、彼らがその人を主イエスの所へ連れて行ったので、主イエスはこの人に目を止めて癒されたということです。もちろん、本人の信仰も必要でしょう。本人がこの方なら癒してくださる、と信じていたか、そうでなかったかはわかりません。
でも主イエスの所へ連れてこられた時、聖霊の働きによって、まずその人の心が開かれ、そして耳と口も開かれた。これがここでの癒しです。
聖霊の働きは、私たちの目に見えないので、わかりにくいです。でも、特に信仰の事柄については、私たちの心に働いて、私たちの心を変えてくださる。
そういう現実に向き合う時、私たちは、確かに聖霊の働きがあることを知ることができます。
以前にお話ししたかもしれませんが、私の父は病床で洗礼を受けるという恵みをいただきました。
母と私はクリスチャンでしたから、父の救いは長年の祈りでしたが、父はキリスト教信仰にずっと心を閉ざしていました。
ですが、晩年病を得て、いろんなことを考えたのだと思います。入院が決まったとき、私と母は意を決して、父に「私たちと同じ神さま、イエス・キリストを信じて欲しい」と話したのです。私としては、ダメもとでも、ともかく伝えるべきことを伝えておかないと自分が後悔するから、というのがこの時の心境でした。ところが、父の口から返ってきたのは「わかった、二人と同じ神さまを信じることにする」という言葉だったのです。実際、驚きました。ほんとうに不信仰ですが、予想していなかった言葉でした。
今まであれほど頑なだった父の口から、そういう答えが返ってくるとは思いませんでした。これはもう、聖霊のお働きがあって、父の頑なな心が変えられたのだと思う以外に、説明できない出来事でした。
神様のタイミングで、聖霊が父の心に迫って下さり、罪を自覚させ、キリストに依り頼む以外に救いがないことを理解させてくださったのです。人の業ではありません。
ですが、もう一つ思ったことは、母と私が勇気を出して父に信仰の話をしたことが用いられたということです。神さまが一番いいタイミングで、私たちの言葉を用いてくださったのです。
誰であっても、信仰に導かれるためには、救いに加えられるには、人が用いられるのです。
今日の箇所でも、人々がこの人を主イエスのもとへと連れて行ったので、癒しが与えられたのです。
次に、33節以下を見ましょう。
7:33~35 そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。
この人を連れてきた人々は「手を置いて欲しい」と願っただけでしたが、主イエスはその人を群衆の中から連れ出し癒しをなさいました。聞くことのできない両耳に、主イエスはご自分の手を差し入れました。また、ご自分のつばをつけて舌に触れました。それから天を仰いで深く息をついたとあります。
「深く息をつく」と訳されている言葉は、他の箇所では「苦しみもだえる」とか「うめく」「嘆く」などとも訳される言葉で、強い感情を表す言葉です。主イエスはこの人が「聞こえず話せない」状態で生きることの辛さに、深い憐れみを示されたのです。
「聞こえない」ということは、神の言葉を聞けない、ということです。今のように聖書を自由に読むことができるという時代ではありません。神の言葉はユダヤ教の会堂で、安息日ごとに朗読され、教えられましたが、この人はそれを聞くことができなかったのです。神の言葉を聞くことができないがゆえに、神との交わりを持つことができない、さらには祈りの言葉も出せない、この人のそういう状況に主イエスは深い憐れみをお示しになったのです。
この癒しによって、その人の聴力が回復し、はっきりしゃべれるようになりました。これは、神の言葉を聞き、神に従う人生を歩めるようになったということです。もちろん聴力が回復し、人と会話ができることも素晴らしいことです。でもそれは地上生涯の中だけの祝福です。
ですが、神の言葉を聞き、神との交わりを回復するという祝福は、地上生涯では終わりません。
神との交わりが回復されて、神の国へ入れられた人は、その先もずっと主と共に生きる命が与えられるからです。主イエスは、この箇所でも、地上のことだけではなく、その先の救いまでを視野に入れてこの御業をしておられるのです。
ところで、「聞こえない人の耳が開き、口の利けなかった人が喜び歌う。」は、当時のユダヤ人であれば、ピンとくる預言書があるのです。イザヤ書35章です。
まず、1節から6節までを見ましょう。
イザヤ35:1‐6
35:1 荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ/砂漠よ、喜び、花を咲かせよ/野ばらの花を一面に咲かせよ。
35:2 花を咲かせ/大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ/カルメルとシャロンの輝きに飾られる。人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。
35:3 弱った手に力を込め/よろめく膝を強くせよ。
35:4 心おののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」
35:5 そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。
35:6 そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる。
主イエスの癒しによって、耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになったのを見た人々は、癒しに驚いただけではなく、これがイザヤ書35章と同じ状況だと思ったことでしょう。
イザヤ書35章は、バビロン捕囚に連れて行かれた人々への解放のメッセージです。捕囚の地から再びエルサレムへ帰ることができる、というメッセージ。10節を読むとそれがよくわかります。
35:10 主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に立てて/喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え/嘆きと悲しみは逃げ去る。
そして、主イエスの周りにいたユダヤの人々には、これが、ローマからの解放のメッセージに思えたはず。
しかし私たちは、主イエスが、この癒し以上に、あるいはバビロンやローマからの解放以上に、素晴らしい御業をなさったことを知っています。
それは、主ご自身が私たちの罪を贖うために十字架にかかって下さって、私たちを罪から解放してくださったということです。
罪からの解放は、やがて永遠の神の御国へ迎え入れられるという、救いのメッセージです。
救いは主の御手にある、救いはキリストにある選びと聖霊の働きを通して与えられます。
ですが、具体的に人が救いに入れられるために、神は人の祈りや言葉や働きかけをお用いになるのです。
ですから、私たちは愛する方々を覚え、救いのために忍耐を持って祈り、機会を生かして語り、働きかけることを、地道に継続しましょう。
二か所、み言葉を記しておきます。
一テモ2:4 神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。
ヨハ3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
神の御心は、私たちを救いへと導き入れることであり、その為に主・イエス・キリストが十字架にかかってくださったのです。