2025年05月04日「あきらめずに求めた母」

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あきらめずに求めた母

日付
説教
木村恭子 牧師
聖書
創世記 12章34節~56節

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聖句のアイコン聖書の言葉

7:24 イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。
7:25 汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。
7:26 女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。
7:27 イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」
7:28 ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」
7:29 そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」
7:30 女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
創世記 12章34節~56節

原稿のアイコンメッセージ

<説教要約>2025年5月4日 聖書箇所:マルコ7:24-30 「あきらめずに求めた母」

今日の話は、母の強い願いによって彼女の幼い娘がいやされた話です。
場所は、「ティルス地方」。地中海沿いの古い港町で異邦人の町でした。
主イエスはこの時、「ティルス地方に行かれ」そして「ある家に入られた」とあります。また、さらに不思議なことは、7:24「だれにも知られたくないと思っておられた」とあります。
理由はいくつか考えられますが、ともかく、主イエスはティルスという町の、とある家に滞在なさいました。お忍びの滞在のはずでしたが、それでも人々は気づいたんです。多くの人が主イエスと弟子たちの行動に注目していたのです。

そして、主イエスの行動に注目していた人々の中に、一人の女性がいました。それが今日の話の主人公です。彼女はユダヤ人ではなく、異邦人、外国の女性でした。しかし、彼女は主イエスがティルス地方に来られたことを知ると、直ちに主イエスのもとにやってきました。
彼女は幼い娘を持つ母親でした。そして、彼女の幼い娘は「汚れた霊に取りつかれていた」のです。具体的な病状については記されていないのでわかりませんが、マルコ福音書には「汚れた霊に取りつかれた人」の話が結構でてくるんですね。ですから「汚れた霊に取りつかれると、どんな状態になるのかある程度想像できます。
マルコ1章21節以下には、汚れた霊に取りつかれた男が、礼拝中にユダヤ教の会堂の中で突然叫び出した、という話が記されています。
5章には、人里離れた墓場に住んでいる汚れた霊に取りつかれた男の話があります。彼は、足枷や鎖で縛られても、鎖を引きちぎり、足枷を砕いてしまう。昼夜を問わず叫んだり自分を打ちたたいたりしていると記されています。この男の人は、一般の社会で、人々と普通に生活できない状態だったことがわかります。
9章には、汚れた霊につかれた息子の癒しを願う父親の話があります。父親によれば「汚れた霊は息子を殺そうとして、火の中や水の中に投げ込む」と訴えていますから、彼の息子は常に命の危険と隣り合わせの状態だったと考えられます。
これらの話から想像すると、主イエスの所へやってきた母親の幼い娘も、普通の日常生活を送れないほどの状態、もしかしたら命に関わる危険があるほど切迫した状況だったかもしれません。
母は、幼い時からそんな状態の我が子を抱え、ここまで何とか生き抜いて来ました。しかし先々のことを考えると、心配で仕方なかったと思うのです。それで、この母は、主イエスが「悪霊を追い出すことができる」という評判を聞いて、何とか自分の娘も癒してほしいと願ったのです。
マル7:25 すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。のです。

母は、急いで主イエスの所にやって来ました。娘を治していただく絶好の機会ですから、グズグズしてはいられません。この機会を逃してはならない!! 何としても、主イエスにお会いして、娘を助けていただこう!!そんな思いでやってきたのです。
彼女はイエスのもとに来ると、地べたにひれ伏して、主イエスを拝むようにして、そして「私の娘から悪霊を追い出してください」と願いました。

今までの主イエスの行動を考えるなら、私たちは、主イエスがすぐにこの憐れな母親の願いを受け入れて、幼い娘から悪霊を追い出してくださるだろうと期待します。ところが、このときはそう簡単に事が運びませんでした。何故かといえば、この女性と幼い娘は、ユダヤ人ではなく異邦人だったからです。
27節の主イエスの言葉に注目しましょう。
7:27 イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」
ここで「子どもたち」とは、イスラエル民族、ユダヤ人のこと。「子犬」は異邦人、ここでは、この母親と幼い娘を指しています。
ですから言葉の意味は、「神の救いの恵みは、まずユダヤ人に伝えられなければならない。それを取って異邦人に与えてはいけない」という意味で、それを間接的に表現した主イエスの言葉です。

マタイ福音書に、主イエスのこんな言葉があります。
初期ガリラヤ伝道の際、12人の弟子を福音宣教に派遣する時の注意として、主イエスが弟子たちに命じた言葉です。
マタ10:5 イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。
10:6 むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。
10:7 行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。
「神の救いの恵みは、まずユダヤ人に伝えられなければならない」ということです。主イエスは、福音宣教の初期には、このことを意識していたようです。

しかし、「母は強し」。彼女はこの言葉を聞いても引き下がりません。彼女には、主イエスから恵みを引き出したい。何とかして、娘を癒して欲しい、元気にして欲しいという切なる願いがありました。
マル7:28「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」と言います。神の祝福のおこぼれでもいいから、自分の娘に与えて欲しい。そうすれば娘は癒されるはずだし、主イエスにはその力と権限があると信じていたのです。
同時に、主イエスは、異邦人であっても憐れんでくださる方だ!と、「神の愛の広さ」への期待も持ち合わせていました。
そして与えられた言葉が29節。
マル7:29「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」
彼女は、何としても、主イエスを自宅へ連れて行って、娘を癒していただこうとはしませんでした。
彼女は、イエスの言葉を信じて、そして帰路に着きました。神の愛を信じ、主イエスの言葉によりすがって、家に向かったのです。
そうして彼女は信じた通りの現実を目にしました。
マル7:30 女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。
子どもは叫び続けることも、暴れ回る様子もなく、穏やかな表情で眠っていました。
その表情から、明らかに悪霊が除かれて癒しが与えられたことが見て取れました。

マタイ福音書の並行記事では、このような主イエスの言葉が記されています。
マタ15:28 そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。

今日の話で覚えて欲しいことの一つは、「あきらめずに求めること、願い続けること」です。
主イエスは、私たちの必要をご存知で、私の願いに愛をもって対処してくださる方だと信じて、願うことです。それを主イエスは「あなたの信仰」と評価してくださるのです。
私たちの日々の生活にも、この母親のように切なる願い、祈りがあります。
大切に祈り続けている祈りがなかなか聞かれない時、もうこれ以上祈り続けても無駄ではないだろうか。御心ではないのでは。あるいは、自分の信仰が足りないので祈りが聞かれないのではないか。そんな風に思い悩んでしまうこともあるでしょう。
それでも簡単にあきらめてはいけません。特に、愛する家族や隣人の救いを願う祈りは、簡単に捨ててはなりません。
ある注解書にこのように書かれていました。「拒絶によってくずおれる偽りの信仰か、拒絶されてますます忍耐において固くなる真の信仰かを試されているのです。神から来たまことの信仰は挫折しません。試練の中で研ぎ澄まされ、かえって根強くなるのです。」
なかなか聞かれない祈りは、信仰の訓練かもしれません。「あきらめずに願う」「願い続ける」。忍耐深い祈りを通して、神からの祝福をいただきましょう。

今日の箇所から覚えたいもう一つのことは、異邦人も救いに加えられるということです。
今日の主人公の女性は、ユダヤ人ではなく、明らかに異邦人でした。主イエスは伝道の初期には、「まずはユダヤ人伝道」と意識しておられたようです。
旧約聖書を読んでいきますと、いくつか例外はありますが、「救いはユダヤ人から」。「ユダヤ人が救いの担い手」という思想が読み取れます。
けれど、今日の話は、恵みが異邦人にも向けられていることの前兆の様な話であり、この話をマルコが記していることに、意味があります。
主イエスの十字架、復活、昇天を境に、キリストの救い、福音宣教は世界宣教の時代へと移っていきます。そのことを今の私たちは知っています。

復活の主イエスは、そのことをはっきり語っておられます。
使徒1:8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
そして、弟子たちの上に聖霊が降るという出来事がおこりました。ペンテコステ、聖霊降臨です。
主イエスの弟子たちに聖霊が与えられ、聖霊に満たされて、弟子たちは世界宣教へと出ていったのです。

パウロはガラテヤの信徒への手紙で、この現実をこんな風に記しています。
ガラテヤ3:26-28 あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。

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