2025年03月23日「イエスの祈り」

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14:32 一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。
14:33 そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、
14:34 彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」
14:35 少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、
14:36 こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」
14:37 それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。
14:38 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」
14:39 更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。
14:40 再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。
14:41 イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。
14:42 立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 14章32節~42節

原稿のアイコンメッセージ

<説教要約> 聖書箇所:マルコ14:32~42 「イエスの祈り」
今朝はイエス様の祈りにスポットを当ててお話いたします。
福音書を読むと、イエス様が祈る姿がしばしば記されています。イエス様は神の御子であり、父なる神と親しい関係にあります。ですが、地上ではある意味、父なる神と離れた状態でした。そういう中で、イエス様はしばしば神に祈っています。地上でのイエス様は、祈りを通して父なる神とつながっておられた、ともいえるでしょう。では、イエス様は、地上でどのように祈っていたのでしょうか?
今朝はマルコによる福音書から、イエス様が人々から離れ、退いて、神に祈られた個所を見ていきます。
まず、マルコ福音書1章35節。状況がわかるように、少し前から読みます。
「夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。 町中の人が、戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。」
ペトロの家での出来事です。人々は日が沈んで安息日が終わるのを待って、イエス様のところへ押し寄せました。目的は癒しです。病気や悪霊に悩んでいる人を連れた人々が大勢やってきて癒しを願いました。イエス様は彼らを憐れみ、お癒しになったのです。
安息日が終わるのは、夕刻、日が沈んでからですから、この時人々は夕方から押し寄せたのです。
イエス様は集まった一人一人に、手を置いて、丁寧に対応なさいました。一人一人に対して個別対応ですから、時間がかかるし、体の消耗もあり、そうとうお疲れになっていたはず。そうしてへとへとになって寝床に入られたと思われます。
それなのに「 朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。」のです。このときのイエス様は、体の疲れと共に、人々がからだのいやしや悪霊除去など、目先のことだけに関心を寄せて、神の国の福音に心を向けようとしないことへの落胆がありました。そういう中で、イエス様は、一人静に父なる神に向かい、祈ることで、神から新たな力を得て、ご自身の使命である、宣教の働きへと向かわれたのです。
次にマルコ福音書6章45‐46節
先週お話しした五千給食の直後です。男だけで5千人、女や子供を加えるなら、さらにたくさんの人々に十分なパンと魚を与え、人々が心も体も満ち足りた、その後のこと。
マルコ6:45-46「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。」とあります。心も体も満ち足りた人々は、さらにその場にとどまろうとしていたかもしれません。しかしイエス様はそれをお許しになりませんでした。イエス様はまず、弟子たちをその場から去らせました。疲れている弟子たちを配慮してのことでしょう。そしてその後で、イエス様は群衆を解散させたのです。
そして、お一人になって「祈るために山へ行かれた」とあります。
このようにしてイエス様は、地上において、祈りを通して神との深い関係、生きた関係を保ち続けたのです。
さらにもう一か所、初めにお読みした「ゲッセマネの祈り」です。最後の晩餐の後、イエス様は弟子たちとともにゲッセマネへと向かいました。といっても、そこにいた弟子は11人。イエス様を裏切ろうとしているユダは、最後の晩餐の後、こっそりイエス様のもとを去っていました。
そして、イエス様ご自身も、ユダがいないことはご存知でした。
もうすぐユダが、武装した人々を連れてここへやってくることを知りつつ、しかしそこにとどまり、祈られたのです。
14:33-34そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。
イエス様がひどく恐れてもだえ始めたとあります。イエス様は、自分をとらえるためにやってくる人々が、自分を十字架へと向かわせることを知っておられました。
愛する弟子のひとりであるユダの裏切り、そして十字架への道は、当然ながらイエス様にとって大いなる苦しみであり、恐れでした。イエス様は父なる神にご自身の心の状態を訴え、そして心の整理し、落ち着かせ、前に進むため、必死に祈られたのです。
14:35-36 少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」
十字架に向かうというご自身の使命をご存知で、それを覚えつつも十字架を前にして苦しみもだえるイエス様。「できることなら」は、もし許されるのであれば、神が許してくださるのなら、十字架を取りのけてほしいという願い。しかし、同時に「御心に適うことが行われますように」とも祈っておられます。
大きな苦しみに向かわなければならない場面で、同時に、人としての弱さや誘惑と格闘しながら、静まって神に向かい、祈られたのです。長く苦しい祈りを通して、父なる神との深い交わりの中で、少しずつ心と体が整えられ、ストレスや誘惑や苦しみに立ち向かう力が与えられ、そうして、御自身の使命である十字架へと進んでいかれたのです。
地上でのイエス様の祈りの中で、特にゲッセマネの祈りは、父なる神の前に出て、自分の思いではなく、神の御心を求める姿であり、何とかして神に従う力を得ようとする祈りです。

イエス様は地上で、私たちと同じように、人として歩まれました。罪は犯されませんでしたが、私たちと同じ肉体を持ち、体の痛みを知り、弱さを持つ人としての歩みでした。
そのイエス様が、神に従って地上生涯を歩み通すために、神に相対して真剣に祈ることをされたのです。
そのようにして、神との生きた関係を保ち続けられた、ということでもあります。
神の御子であるイエス様でさえ、そうだったのですから、私たちにとって、祈りは神との関係、そしてイエス様との生きた関係を保つための大切な手段です。祈ることで神との生きた交わりが与えられ、保たれる、ということを覚え、祈ることを大切にしたいと思うのです。

ウェストミンスター小教理問答の「祈り」についての告白を確認いたします。
問88 キリストが、贖いの恩恵をわたしたちに分かち与えるのにお用いになる外的手段は何ですか。
答 キリストが、贖いの恩恵をわたしたちに分かち与えるのにお用いになる外的で通常の手段は、キリストの諸規定、特に、御言葉と聖礼典と祈りです。これらすべてが、選びの民にとって救いのために有効とされます。
「外的手段」とは、私たちが見える形で、あるいは自分の意志で用いることができる方法、ということです。
キリストが救いの恵みをわたしたちに与えるために、御言葉、礼典、祈りという手段をお用いになる、ということです。
聖書の言葉、礼拝や様々な場で語られるみ言葉の解き明かし、そして洗礼と聖餐式という礼典、加えて、祈り。この三つによって私たちは救いに至る信仰が与えられるということです。
そしてもう一か所
問98 祈りとは何ですか。
答 祈りとは、神の御心にかなうことを求めて、キリストの御名により、わたしたちの罪の告白と、神の憐みへの心からの感謝と共に、わたしたちの願いを神にささげることです。
問98では、祈りの本質が告白されています。
まず、神の御心、神の意志を思いつつ祈ること。
イエス・キリストのお名前を通しての祈りであること。ですから、祈りの最後に私たちは、「イエス・キリストによって祈ります。アーメン」と祈りを結びます。
また、祈る内容は自分の願いだけではありません。神への感謝と、罪の告白も大切です。
「祈りとは、神の御心にかなうことを求めて、キリストの御名により、わたしたちの罪の告白と、神の憐みへの心からの感謝と共に、わたしたちの願いを神にささげることです。」

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