2025年02月23日「何を献げるのか」

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何を献げるのか

日付
説教
木村恭子 牧師
聖書
ルカによる福音書 21章1節~4節

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イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。
そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、
言われた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。
あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ルカによる福音書 21章1節~4節

原稿のアイコンメッセージ

<説教要約>ルカ21章1-4節 「何をささげるのか」
21:1 イエス様は目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。とあります。
その日、エルサレム神殿で献金をする人々の様子を、イエス様は見ておられました。
大勢の金持ちが次々にやってきて、献金入れに献金をしていきました。彼らは胸を張って、多額の献金を献げました。
しかし、そのとき、ひとりの女性がやってきました。外見から生活の厳しさがわかるような女性でした。イエス様には、すぐに彼女が「やもめ」だということがわかりました。
「やもめ」とは夫を亡くした女性のこと。今の時代であれば「夫のいない女性=貧しい」とは限りません。
ですが、2000年前のユダヤ社会では、女性が仕事をして自分の生活を立てていくなど、考えられないことでした。ですから彼女は、実際貧しかったのです。 その日の生活にも苦労するくらいに。
彼女が献げたのは、「レプトン銅貨二枚」でした。日給5000円として今のお金に換算すると、2レプトンは約78円です。ですから、彼女のささげた献金は、ほんとうにわずかだったのです。

当時神殿の献金入れの前には祭司が立っていて、ささげる献金を確認したそうです。たくさん献金する金持ちはその場で称賛され、わずかな献金しかできないこの女性のような人は、その場で馬鹿にされ笑われたのです。たったそれだけの献金、してもしなくても大勢に影響はない。周囲の人はそう考えたかもしれません。しかし、イエス様の評価は違いました。
「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」(21:3-4)

今日の話から、二つのことを教えられたいと思います。一つは、神は何をもって私たちの献げ物、献金を評価なさるかということ。もう一つは、この女性はなぜ生活費全部を献金できたのか、ということです。

イエス様は、彼女の献金をだれよりもたくさん献げた、と評価なさいました。どういうことでしょうか? 金額で言えば、確かに少ないのです。ですから、イエス様は献金の額を見ておられるのではないということはわかります。
ある注解書にこんなことが書かれていました。「ここでのイエス様の判断基準は、ささげた献金ではなく、後にどのくらい残しているか」だと。そう考えると、金持ちは多額の献金をしても家にはそれ以上にお金があります。彼の生活には一切支障がないし、何の犠牲も払っていません。
一方で、この女性は、レプトン銅貨2枚献金してしまったら、もう何も残らない。「乏しい中から持っている生活費を全部入れた」のですから。
もしかしたら、その日食事もできないかもしれない。それでも、いつも自分を配慮し、守り支えてくださる神に感謝の気持ちを差し出したかった。彼女は、自分の全生活、もっと言えば自分の命をささげた、ということです。ですから、イエス様は、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。と評価されたのです。イエス様はそれが彼女にとって精一杯の献金だということをご存じだったからです。
 
祭司も含め、当時の人々は献金の額に注目しましたが、イエス様は献金の額ではなく、ささげる人の心の思いをご覧になったということです。
この貧しい女性が、わずかであっても、神への感謝と神への愛を形にして献げたいという思い。それを評価なさったのです。

もう一つのことは、この女性は、なぜ、生活費全部を献金できたのか、という問題です。
旧約聖書、申命記 10:17-18にこんな約束が記されています。
10:17 あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、
10:18 孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。
モーセの時代に、神がイスラエルの民に与えられた約束の言葉です。
このように、イスラエルの神は、旧約の時代から、小さい者、弱い者、力のない者、虐げられている者に配慮なさる神です。
この女性は、イスラエルの神がこのような方だと信じており、この約束を信頼していたのです。
また、これまで彼女の人生において、この信頼が裏切られることなく、やもめになってからも、守られてきたのです。
実際、いろんな形で、彼女の人生に神の配慮があり、隣人や周囲の人々の手を通して、その時々の必要が備えられてきたのでしょう。
神が、いつも私に目を止めていてくださる。神が私の必要をご存知だ。必ず神の助けがある。
それが彼女の確信だったのです。そういう信仰があったから、この日彼女は全生活費を献金するという仕方で、心からの感謝をささげたのだといます。
つまり、献金は信仰の現れであり、神への信頼の証しだということです。

福音書に金持ちの青年(議員)の話し、が記されています。こんな話です。
ある金持ちの青年がイエス様に質問しました。「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と。するとイエス様はお答えになりました。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」しかし、その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。(ルカ18:22-23) この人には、まあ突っ込みどころがいろいろあるのですが。
今日の話しとの関係だけを考えるなら、彼は自分の財産、お金への信頼、あるいは執着が、神への信頼を上回っていた、ということができます。持っているものすべてを売り払って貧しい人々に分けたら、この先自分はどうなるのか? 自分はどうやって生きて行けばいいのか? と考えたのでしょう。この人の問題は、神以上に財産に執着し、神以上に財産を頼りにしていた、ということです。
今日登場した女性と比べて考えると、それがよくわかります。

神殿で彼女が献げたのは、神への信頼、つまり彼女の信仰です。
神への信頼を、神への感謝として献げたのです。
この女性の、神への信頼、彼女の信仰に目を向けるように! というのがここでの教えです。
でもこういう確信、信仰って、一朝一夕にもてるわけではありません。いつも神に目を注ぎ、自分の周囲で、あるいは自分に起こってくる全てのことが、神の守りと導きの中で起こっているのだ、ということに気づくこと、知ることから始まります。そういう風に、神を見上げ、イエス様と共に歩む、信仰の歩みを積み重ねていく中で、だんだんに持つことができるのが神への信頼、神により頼む信仰です。
日々の御言葉と祈りの中で、私たちがまことの神に、イエス様に目を向けているなら、私の人生に、確かに神の愛が注がれていること、神の恵みがあることが理解できるはずです。キリストの十字架と罪の赦しを通して、私の人生に、神の愛と神の配慮が注がれていることを、覚えたいのです。

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