弟子を派遣する
- 日付
- 説教
- 木村恭子 牧師
- 聖書 マルコによる福音書 6章6b節~13節
6:6 それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。
6:7 そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、
6:8 旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、
6:9 ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。
6:10 また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。
6:11 しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」
6:12 十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。
6:13 そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 6章6b節~13節
<説教要約>2月16日 マルコ6:6-13 「弟子を派遣する」
今日の箇所で、12人が派遣されますが、12人のこれまでのことを少し振り返ってみましょう。
ガリラヤ伝道は、まず4人の弟子が選ばれることで始まりました。その後8人が任命され、12人になりました。最初の4人も、後から選ばれた8人も、イエス様からお声をかけて、イエス様が選んだメンバーです。
12人はイエス様の近くで、イエス様ら直接、神の国の福音を聞き、力あるみ業をその目で見てきました。そして今日の所で、初めて12人がイエス様から離れて、働きへと派遣されることになったのです。
マルコ6:7~9節「そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして『下着は二枚着てはならない』と命じられた。」
同じ話が、マタイ、ルカ福音書にもありますので、見ましょう。
マタイ10:1「イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。」
ルカ9:1-3「イエスは十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。そして、神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わすにあたり、次のように言われた。」
マルコ福音書だけでは、与えられた力や派遣の目的が今ひとつわからないのですが、マタイ、ルカ福音書を見ると情報量が増えます。
まず、与えられた力は「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能」であること。
派遣の目的はルカ福音書から「神の国を宣べ伝え、病人をいやすため」だとわかります。
マルコ福音書に戻って、この時イエス様が12人に命じられた言葉をもう少し詳しく見ましょう。
まず、イエス様は二人一組にして弟子たちを派遣しました。一人より、二人の方がいろんな意味で力強いですよね。互いにかけを補い合ったり、支え合ったりできます。
神の働き、福音宣教は個人プレーではない、ということを理解しましょう。
また、最も重要なことは、イエス様が彼らに、必要な力を授けて派遣したということです。
今まであなた方にいろいろ教えてきたのだから、その通りにやってみなさい!ではなく、マルコ福音書の言葉では「その際、汚れた霊に対する権能を授けた」とあります。
12人は、イエス様の弟子の中でも特別な12人として選ばれた者たちです。彼らは比較的早い時期に選ばれ、それ以来ずっとイエス様のおそば近くで仕えてきました。それでも、神の国の働きは特別です。人の力だけで、どうにかなるものではないのです。
また、イエス様は、弟子たちを派遣するに際して、必要最低限の持ち物で出かけるようにと指示をなさいました。持ち物は杖一本だけ。食料やお金も持たないで行くように。下着も一枚だけ。
それは、「福音宣教に必要なものは、全て、神が備えてくださる」というメッセージです。
さらに6:10「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。」とも。これは、備えられた環境の中で、与えられた働きに集中するため、ということでしょう。
11節には
6:11あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」とあります。
福音を拒む人に対しては、その人を説得するために留まるのではなく、先に進むようにと命じられています。
福音を拒むものに対して「足の裏の埃を払い落としなさい。」とは、「福音を伝えるという私の責任は果したので、それを拒絶した裁きは、あなたがたが負うのですよ」というパフォーマンスです。これもまた、厳しい言葉です。
12人の弟子たちは、このようなイエス様の言葉に送り出され、村々へ出ていきました。
6:12 十二人は、出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。
「悔い改め」とは、自分にだけ目を向けた生き方、自分中心の生き方から、まことの神へと向き直り、神と共に生きることです。
私を愛しておられる神、私を裁かれる神を意識して生きること。これが悔い改めの第一歩です。
ですが、イエス・キリストの福音がその人の魂に届かなければ、真実の悔い改めは起こりません。
ひとりの人間を悔い改めさせるなど、人の力でできることではありません。
真実の悔い改めは、ただただ神の働き、神の業です。ですから、神の力、イエス様の力、聖霊の働きが必要です。
でも、12人には、イエス様の権能が授けられていたので、あたかもイエス様がお働きになっているかのように、働くことができたのです。
それで、
6:13 そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。という、確かな結果が与えられたのです。
12人はまだまだ未熟な弟子たちでしたが、彼らがイエス様の力を授けられ、彼らを通してイエス様が働かれたので、彼らの働きに成果が与えられたのです。
神の国の働き、伝道や教会での働きは、もちろん、遣わされた人の才能や努力、献身が必要ですが、それだけで、働きが成し遂げられるということではありません。
必要な働きのために、神は必要な力、賜物を授けられることで、働き人は安心して働けるのです。
これは、今の私たちにも当てはまることです。
特に、教会役員に選ばれた場合、牧師、長老、執事は任職・就職というセレモニーがあります。
そこで、神の助けがあることを祈り、確認するのです。川越教会では3月2日に執事の任職・就職式を予定していますので、ぜひそのことを確認してみてください。