常識って何だろう
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- 説教
- 木村恭子 牧師
- 聖書 マルコによる福音書 6章1節~6a節
6:1 イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。
6:2 安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。
6:3 この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。
6:4 イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。
6:5 そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。
6:6 そして、人々の不信仰に驚かれた日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 6章1節~6a節
<説教要約>
聖書個所はマルコ福音書6章1節から6節前半までです。
新共同訳聖書の小見出しによれば「ナザレで受け入れられない」とあります。
イエス様がお生まれになったのはユダヤのベツレヘムですが、お育ちになったのはガリラヤのナザレです。ですから、ここでは「故郷にお帰りになった」と記されているのです。
ですが、この時ナザレに行ったのはイエス様お一人ではありません。弟子たちも一緒でした。
ナザレには、イエス様がお育ちになった家があり、母マリアと弟や妹たちもいました。父ヨセフは大工でしたが、この時にはもうなくなっていたようです。大工と言ってもパレスチナでは石を積み上げて家を作りますから、石工という方が正しいでしょう。石工は、石を担いだり削ったりしますから重労働です。また肺の病気になるリスクが高い職業でもあります。イエス様はヨセフ家の長男として、30歳近くまで、父の仕事を手伝いながら家族を支えて過ごされたのでしょう。故郷の人たちはそれを知っていたのです。
ところが最近、イエス様についてのうわさが、このナザレにまで聞こえてきていたのです。
マルコ福音書1章21節以下にイエス様が会堂で教え、また悪霊につかれた人をいやした記事があります。
「人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」(1:22)とあります。このときは、教えだけでなく、この場で汚れた霊に取りつかれた人から霊を追い出す、ということもなさいました。そしてその結果が28節。「イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。」となっています。
ということは、ガリラヤのナザレに住むイエス様の故郷の人々も、イエス様の評判を聞いていたのです。
それでこの日、故郷の人々はイエス様の話しや業に大いに期待していました。大工ヨセフの息子で、自分たちが幼い時からよ~く知っているイエスが、有名人になって故郷に帰ってきた。最近聞こえてきたイエスの噂は本当なんだろうか? いったいどんな話をするんだろう?人々は興味津々でした。
イエス様は、他の町でしているのと同じように、安息日にユダヤ教の会堂に入って教え始めました。そして、その教えを聞いた人々は大変驚いたのです。マルコ福音書は簡単に「多くの人々はそれを聞いて、驚いた」と手短に記しています。ですが、この時の安息日礼拝の様子が、ルカ福音書にもう少し詳しく記されています。ルカ4章16‐21をお読みください。
安息日礼拝では、今のわたしたちの礼拝と同じように聖書が朗読され、といっても旧約聖書になりますが、そして解き明かしがあります。イエス様がこのときお読みになったのは、ルカ福音書によればイザヤ書の言葉だと記されています。そしてイエス様は、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と語られました。預言者イザヤの言葉が、またもっとはっきり言えば、旧約聖書の預言が、自分によって今実現した!!と語られたのです。ルカ福音書では、人々は驚きと共に、イエス様の言葉に大いに反発して、イエス様を崖から突き落とそうとした、とまで記されています。
イエス様の話を聞いた故郷の人々は驚きました。聖書知識の深さ、広さ、加えて力ある業。しかし人々はイエス様の言葉と業を通して神を見上げることはありませんでした。
そして驚きは別の疑問へと向かったのです。
それが、2節、3節。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」
確かに、イエス様の父ヨセフは大工、母はマリア。兄弟姉妹たちも普通の人々でした。常識的に見れば、その通りです。しかし、この指摘は誤りです。実際には、イエス様は、聖霊によってマリアの胎に宿った約束のメシア、神の御子です。
この時、イエス様の話を聞いた故郷の人々は、自分たちの知る限りの、表面的な「イエス」にこだわり、常識的な判断を下して、イエス様の語る福音に耳を傾けることができなかったのです。マルコは「人々はイエスにつまずいた。」、「イエスは人々の不信仰に驚かれた」と記しています。
常識的な考えに固執してそこから抜け出さない状況こそが「不信仰」なのです。
さらに6:5 に注目しましょう。「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。」
信仰がないところでイエス様は奇跡を行えないということではありません。イエス様は人間の側の信仰の有無とは関係なく、奇跡をおこなうことがおできになります。それは、イエス様の十字架の死からの復活のことを考えるとわかります。果たして、イエス様が十字架で死なれた後、本当に復活されると信じていた弟子がいたでしょうか? しかし、イエス様は、弟子たちの不信仰、逃亡、怖れにもかかわらず、神の力によって死から復活なさいました。これこそ最大の不信仰の中での奇跡、と言えるでしょう。
ですから、この場においても、故郷の人々が不信仰だったから、イエス様が奇跡を行うことができなかった、ということではありません。
今日の個所では、不信仰のゆえに、イエス様の数々の奇跡の業、恵みに与ることができなかったのです。
逆に考えるなら、故郷の人々がイエス様を信じたならば、イエス様は故郷でもさらに多くの癒しや奇跡、福音宣教をなさって、人々は多くの恵みを受けることができたのです。
イエス様の恵みは、イエス様を信じ、イエス様に期待する者に対して、惜しみなく豊かに注がます。
最後は、6;4のイエス様の言葉に注目しましょう。「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」です。
それでは、イエス様の家族や故郷の人々は、誰も神の国の福音を信じることができなかったのだろうか、という疑問です。確かに、このときにはイエス様の家族を含めた故郷の多くの人たちは、イエス様を信じることができませんでした。そしてイエス様は静かに彼らのもとを立ち去りました。
ですが、この後新約聖書を読み進めていくと、イエスの母マリアは、イエス様の十字架のとき、傍らでイエス様を見つめていました。またイエス様の兄弟ヤコブは、後々エルサレム教会の中心的な人物として登場します。ということは、この後彼らは福音を信じ、イエス様の死と復活を受け入れ、キリスト教信仰を持ったのです。
今日の話は、家族伝道の難しさに通じる話だと思うのです。家族への伝道については、私もほんとうに難しさを覚えています。私という人間をよく知っている家族に対して、福音を語る、証するのは、難しいなあと。
しかし、イエス様はこの時、この世の家族の救いに目を向けて、わざわざガリラヤへ行かれたとも考えられます。家族は、この時はイエス様を信じられなかったけれど、この出来事は家族や周囲の人々の心に深く刻まれたはずです。そして、その後の様々な出来事を経て、信仰へと導かれたのです。福音宣教は、特に家族伝道は、一朝一夕にできるものではありません。イエス様でさえそうだったことを思えば、罪ある私たちが、簡単に家族伝道できるはずがないでしょう。特に家族伝道は日々の積み重ねが大切です。
使徒言行録でパウロも語ります。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」
これは、あなたが主イエスを信じたら、芋ずる式にあなたの家族も救われる、ということではありません。ですが、先にイエス・キリストを信じたあなたが用いられて、あなたの家族も神の救いを信じるときが与えられる、ということです。わたしの家族や愛する方々が、神に心開く時、救いに与る時が備えられていると信じ、忍耐と希望を持ってその方々のために祈り続けましょう。