2025年01月19日「ただ信じなさい」

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イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。
会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。
さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。
そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」
イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。 一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、 家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。 そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 5章21節~43節

原稿のアイコンメッセージ

<説教要約>2025年1月19日 マルコ5:21‐43 「ただ信じなさい」 
21節から43節とちょっと長いんですが、ここには二つの話が記されています。ちょうどサンドイッチのような構成になって。この二つの話から、「信仰とは何か」が具体的に教えられています。

愛する娘のいやしを願ったのは「会堂長の一人」とあります。ユダヤ教の会堂の長、あるいは管理者、という意味で、ユダヤ教社会の中で指導者として地位ある人です。その人が、自分の娘のために、公衆の面前でイエス様の足元にひれ伏して願ったのです。自分の体裁などかまっていられないほど、娘の病状はせっぱつまっていたので、「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」とイエス様に懇願しました。
ヤイロは、自分の娘が、人間の力ではもうどうすることもできないほど病状が進んで弱っていることを知っていて、それでも何とかして命を助けたいという一心でやってきたのです。もうイエス様以外に頼るべき方はいな! そういう思いで、会堂長はイエスの前にひれ伏して願ったのです。そしてイエス様は、すぐにヤイロと一緒に出かけたのです。ところが、その途中に別の事件が起こりました。

イエス様が歩き始めると、大勢の群衆も一緒に動き、イエス様のまわりは混雑状態でした。その中に、イエス様の評判を聞いてやってきた一人の女性がいました。彼女は12年間出血が止まらなかったとあります。彼女も場合もまた、医者の手によっても、またどんな薬を使っても、どうにもならない。おまけに全財産も失ってしまい、絶望の淵にいました。彼女もイエス様なら助けてくれるはず!!と、イエス様に最後の望みを託していました。しかし彼女はヤイロとは違いました。ヤイロのように、人々の前で、イエス様に堂々とお願いする勇気はありませんでした。当時のユダヤ社会では、女性が人前に出ることはほとんどありませんでしたし、まして多くの人がいる中で有名な先生に自分から話しかけるなどできません。また彼女の病は、不正出血というような婦人科系の病気だったと思われますが、女性の出血はユダヤ教では宗教的な汚れとされていました。ですから人前で自分の状況を話すことはできなかったのです。
しかし長年苦しんでいた彼女は、イエス様に触ることができれば、誰にも知られることなく、自分の病はいやされるのではないか。この方は私に善きことをしてくださる、と信じたのです。
そしてイエス様の後ろからそっと近づいて、イエス様の服に触れたところ、とたんに出血が止まり、病気がいやされたのです。彼女はそれを感じました。そしてイエス様も、自分の内から力が出たのを感じたのです。それで「わたしに触れたのは誰か」といわれました。
弟子たちは、大勢の人があなたを取り巻いて押し合っているのだから、あなたに触れた人はたくさんいるはず、と考えました。しかし、いやされた当人、つまりその女性には、イエス様の言葉の意味がわかりました。それで、「女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。」(5:33)
女性は、イエス様は私の病気を治す力をもっておられる、そしていやしてくださるはず!と考え、イエス様に手を伸ばしたのです。
しかし、イエス様は、彼女に対して、私の服に触ったからあなたの病が治ったのではない、「あなたの信仰があなたを救った。」と言われました。
イエス様はここで、「あなたは癒された」ではなく「あなたは救われたのだ。」とおっしゃっています。この時確かに彼女の病は癒されました。治りました。しかし、それで終わりではなかったのです。あなたは私(イエス様)を信じる信仰によって、神の救いに入れられた。イエス様を通して神との交わりに入れられた、と言われたのです。イエス様を信頼したことで、この女性に、体のいやしだけでなく、魂の救いと将来の祝福、希望まで与えられたのです。

ところが、イエス様が、この女性とのやり取りで時間をとられている間に、なんと、ヤイロの娘が死んでしまったのです。会堂長の家からお使いの人がやってきて「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」と告げました。お嬢さんはなくなったので、今からイエス様に来ていただいても間に合いません、ということです。しかし、この言葉を聞いてイエス様は
5:36「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言いました。
「ただ信じなさい」は、正確に言えば「あきらめないで信じ続けなさい」です。娘の死を告げられた会堂長は「遅かったか、間に合わなかった」と思ったかもしれません。この場にいた人々はイエス様の力の限界を、勝手に判断したのです。しかし、イエス様は会堂長に「信じ続けなさい」といわれました。
そして子どもの所へ行き、子どもの手を取り、言葉をかけますと、少女はすぐに起き上がって、歩きだしたのでした。

この二つの話から、信仰とは何か、が教えられています。
会堂長やヤイロも、出血の止まらない女性の場合も、イエス様なら癒してくださるはず! と考えました。イエス様なら、自分に善きことをしてくださるはず!と考えたのです。
イエス様を信じれば、イエス様に従って生きれば、神は私の人生を最善へと導いてくださる!! そう信じることが信仰の第一歩です。しかし、それで終わりではないのです。イエス様を通して神との交わりに入れられるのが、信仰の歩みです。
ヤイロの場合は、イエス様が病をいやすことが出来る力を持っておられると信じていました。しかし、死をも支配しておられるイエスの力、死んだ者を生かすイエス様の力までは信じられませんでした。
しかし、イエス様はそんなヤイロの信仰を否定せず、励まされました。
5:36「恐れることはない。ただ信じなさい」「信じ続けなさい」は、イエス様の励ましの言葉です。
イエス様の力の限界、神のあわれみに限界を設けることなく、何でもお出来になる神の力、神の善意を信じていなさい! 信じ続けなさい! ということです。

これは、ヤイロの信仰が弱かった、ということでしょうか? 強く信じれば、思いが叶う、ということでしょうか。そうであれば、人間の側の信仰が、信じるという行為が、信仰の強さが奇跡を起こす、ということになってしまいます。
信仰とは、人間の側の力技ではありません。
信仰は、私たちが神様から恵みをいただくための手、といえばいいでしょうか。
神の愛と恵みを信頼して、神から恵みをいただこうとして、神に向かって手をのばすこと。心を神に向け続けることです。神は、私を愛しておられて、私に善きことをしてくださる、と信じ続けることです。それが信仰です。神はその信仰を通して、私たちにご自身の愛と恵みを豊かに注いでくださいます。

私たちも、ことの結果を自分で判断することなく、結果を予想し、小さく結論付けるのではなく、神が私を愛し恵みを与えてくださることを、ただ信じること、信じ続けること。
信仰を通して与えられる神の愛と恵みによって、私たちの絶望は、必ず希望へと変えられる、と信じ続けましょう。

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