わたしの救い主
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- 説教
- 木村恭子 牧師
- 聖書 ルカによる福音書 2章1節~14節
そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。
ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ルカによる福音書 2章1節~14節
<説教要約>2024年12月22日 クリスマス礼拝 ルカ2:1-14 「わたしの救い主」
2024年は、アドベントからルカ福音書に沿ってその意味を考えてきました。
今朝もルカ福音書2章1節から14節。
イエスキリストの誕生の記事と、そのニュースが羊飼いたちに伝えられた箇所から、クリスマスの意味を考えたいと思います。
皇帝アウグストゥスは、紀元前63年9月23日に生まれ、紀元後14年に死んだ人物。また、キリニウスという人も、当時の歴史を記した書物に何度も登場する人物で、皇帝アウグストゥスの下でローマの執政官をしていた人物です。ルカは、二人の人物を登場させることで、イエス・キリストの誕生が、確かにこの地上で、歴史の中で起こった出来事だということを伝えています。
住民登録のため、ダビデの家系、子孫であるヨセフは、妻マリアとともに、ガリラヤのナザレから、ユダヤのベツレヘムまで150キロ近い道のりを移動しなければなりませんでした。通常5日から一週間くらいかかる距離ですが、身重なマリアを連れての旅ですからもっと時間がかかったことでしょう。しかも、マリアは妊娠後期に入っていたと思われますから、過酷な旅であったと想像できます。
しかし、やっとの思いでベツレヘムに到着した二人を待ち受けていたのは、さらに過酷な状況でした。
2:6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、
2:7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
ベツレヘムの町は、住民登録のためにやってきた人々でごった返していて、宿屋はどこもいっぱいでした。
宿を探し回っているうちに、マリアの陣痛が始まったのかもしれません。本当にぎりぎりの状況です。
身重な女性を連れたカップルに、気付く人はいなかったのでしょうか?
旧約聖書、エレミヤ書にこんな言葉が記されています。
エレミヤ14:8 イスラエルの希望、苦難のときの救い主よ。なぜあなたは、この地に身を寄せている人/宿を求める旅人のようになっておられるのか。
まさに、この時の状況を預言した言葉ではありませんか。
高きにおられる神が、人となって、低き地上に、わたしたちの所まで降りて来られたのに、地上には彼の場所がなかったのです。
歴史を超越した神が、確かに地上世界に、私たちの歴史のただなかに入ってこられたのに、そこには神の御子の居場所はありませんでした。
イザヤ書にもこのように記されています。
イザヤ1:3牛は飼い主を知り/ろばは主人の飼い葉桶を知っている。しかし、イスラエルは知らず/わたしの民は見分けない。
人々が、住民登録の混乱のなかで、自分の泊まる場所、自分の生活だけを心配していたとき、救い主は人知れず、地上に、それも家畜小屋で、お生まれになったのです。
しかし、神の御子の誕生の知らせを聞いた人がいました。それが羊飼いたちです。
2:8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。
羊飼いたちは、夜通し、屋外で羊の世話をしながら野宿して羊の群れを守るのが仕事でした。夜は野宿して羊の伴をしながら仮眠し、昼は昼で、羊を連れ出して餌を食べさせる、というように仕事が続きます。
想像するだけで過酷な仕事とわかります。そんな彼らは住民登録する必要がなく、裁判などで証言する権利もない。つまり当時の羊飼いとは、一般人以下の存在。下層階級の職業だったのです。
しかし、神がマリアに目を留められたように、神は、羊飼いたちに目を留め、御子の誕生のニュースを真っ先に知らせたのです。
神からの天使が羊飼いたちのところに使わされました。
2:9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
「主の栄光が周りを照らした」。
私たちは「主の栄光」を見たことがありませんから、想像するしかありませんが「照らした」とありますから、光り輝いて見えるのでしょう。でも、想像してみてください。電気のない真っ暗な闇の中、突然天使が現れ、その天使を中心に、いまだかつて見たこともないような光が、それも神の栄光の光が、周りを照らしたのです。「きれいだなあー」などとは言ってはいられなかったでしょう。「彼らは非常に恐れた」のです。
2:10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
「恐れるな」と言われても・・・。彼らは震えが止まらないほど恐れを感じたはず。
天使の言葉は続きます。
2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。
2:12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
天使は「主メシアがお生まれになった」と告げました。「主メシア」の誕生は「あなたがたのため」だと。
そして、「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」が、そのことのしるしだと。
最も尊い方、神であるメシヤが、最も低い所に下って来られるという大きな逆説のしるし、それが飼い葉おけの乳飲み子です。
彼らが天使の言葉の意味内容を考える暇もなく、天地を貫くような大合唱が起こりました。天使の聖歌隊による大合唱です。
「いと高きところには栄光、神にあれ」。ラテン語では「グロリア インエクセルシスデオ」。
低き姿でのメシヤの誕生において、「いと高き」「神の栄光」が現されるという逆説。
さらに、「軍勢」が「平和」を告知するという逆説。いろいろ考えさせられます。
羊飼いたちは御使いのことば
2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。
を信じ、「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」を見つけようと、神の招きにすぐに応答して、ベツレヘムへと急きました。こういう彼らだからこそ、神は羊飼いたちを「御心にかなう者」として選び、御子の誕生を真っ先にお知らせになったのでしょう。
神が選ぶ者とは、この羊飼いたちのように、まっすぐ神に向かう心を持った人であり、神の招きに真正面から応えようとする人々であることがわかります。
先ほど、イザヤ書1:3を引用いたしました。家畜小屋の牛やロバでさえ、飼い葉おけの御子を知っているのに、人々はその姿に感心を示すことなく、その出来事を知ろうともしませんでした。
そしてこれはイエス様が公生涯に入られてからも同様です。(ルカ9:58参照)
ですが、今はどうでしょうか? この地上に、そして、特に、皆様の心の中に、イエス様の居場所があるでしょうか?
あるいは、わたしの生活の中に、私の人生の中に、イエス・キリストの居場所が確保されているでしょうか?
果たして、今の時代の人々は、飼い葉おけに寝かされたイエス・キリストを迎え入れて、私の主、私の神、としているでしょうか? 今も主メシアは私たちの中に居場所を探しておられます。(黙示録3:20参照)
わたしたちも「今日」もう一度、「今のわたしの人生の中に」、飼葉桶の主メシアをお迎えし、この先もずっと、彼と共に、神の恵みの中を歩もうではありませんか。